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太陽がギラギラと照りつけアスファルトの上には蜃気楼が見え隠れするほどの暑さの中、佐尾啓人は扇風機で涼を取りながら大量に出された夏休みの課題に取り組んでいた。
母屋と距離のある離れは鬱蒼と木が生い茂り太陽の光を遮ってくれる。それでも気温が高いことには変わらず、啓人は額にうっすらと汗を滲ませていた。部屋にはエアコンも設置されているのだが、体があまり強くない啓人はクーラーに数時間当たっただけでも体調を崩してしまうため極力使わないようにしているのだ。

だが、やはりエアコンを入れたほうが入れたほうがいいかもしれない、と啓人は目の前の人物をこっそり盗み見て思った。

黒いスーツの上着を脱ぎ、カッターシャツを肘まで捲り上げた男、鷹野一成。お互い座っているのに威圧感を感じてしまうのは鷹野の身長が180を超える長身だからだろう。それだけでなく、服の上からでも分かるほどに均整の取れた体は啓人とは全く正反対のものだ。
顕になった腕に汗の粒が浮き出ているのを見て、やはり啓人はエアコンを入れようと思った。

「啓人さん?どうかしましたか?」

ぼぅ、としていることに気づいたのか鷹野が視線を啓人に向けてきた。意思を強く持った鋭い目。一瞬啓人は体を強張らせた。どこか獰猛な獣を髣髴させる鷹野の目。それなのに啓人に問いかけてくる声は丁寧で柔らかい。
啓人は鷹野の視線から逃れるように体を反転させ、エアコンのリモコンに手を伸ばした。

「あ、あの、鷹野さん、暑そうなので…。クーラーを…」

入れようと思って、と続けながらスイッチを押そうとしたが、後ろから伸びてきた手にリモコンを奪われた。

「これぐらい平気ですよ。啓人さんはクーラーお好きじゃないんでしょう。このままで構いません。」

「でも、あの…」

「それに夏は暑いものなんですから。扇風機で十分です。」

もごもごと言う啓人をニコニコと見ながら鷹野はリモコンを元の場所に戻すと、再び机に向かった。課題に手古摺っている啓人をどこで知ったのか、夏休みが始まった二週目から午後になると鷹野が離れに来るようになったのだ。それなりの学があるのか鷹野は教科書片手に分かりやすく丁寧に説明してくれ、例年よりもずっと早く課題の量が減っているのは鷹野のお陰だと啓人は密かに感謝していた。

「啓人さん。どこか分からないところはありませんか?」

「え、あ、あの、ここが少し…」

結局扇風機の微弱な風で涼を取ることになったことを申し訳なく思いながら、先ほどから解けないままの数式を指差した。少し数式を眺めた後パラパラと教科書をめくりだした鷹野を、啓人はやはりこっそりと見つめた。




佐尾啓人は、井口組組長、井口亮一郎の次男で三人目の子供だ。井口組は金田組の傘下で、その金田組は百を超える団体を抱える正木組の傘下である。つまり、井口組は日本でも有数の暴力団体、正木組の一員だ。常に家の中は目つきの鋭い強面の男たちが歩き回り、時には怒号が響いた。啓人はそんな母屋から逃げるように離れで暮らしていた。

啓人は確かに井口亮一郎の息子で血の繋がりはあるが、法的に認知されていない子供だ。ホステスであった啓人の母親、美由起が亮一郎の子供を身ごもったが、適当な手切れ金を受け取り一人で啓人を産み育てた。だが、啓人が12になったとき美由起は急に結婚するといって啓人を亮一郎の元へ置き去りにしたままどこかに身を晦ました。そんな母親を啓人は恨んでも憎んでもいなかった。息子から見てもまだ若く、美しかった母親。まるで花から花へ飛び回る蝶のように自由奔放に生きる美由起には啓人の存在は足枷だったのだろう。むしろ12まで育ててくれたことに感謝しているぐらいだ。

井口家での生活は決して優しいものではなかったけれど、食事は用意され、学校にも通わせてもらうことができ、啓人は不満など持ったことはない。例え、1人の人間として存在を認めてもらえないとしも、だ。

鷹野一成が井口組にやって来たのはそれから3年後、啓人が15歳になったときだった。いつも見てきた粗野な構成員とは全く違う、亮一郎の後ろにスッと姿勢よく立つダークスーツを着こなした鷹野の姿は、まるでどこかのエリート会社員のようだった。

啓人はそのとき既に離れに1人で暮らしており窓からこっそりと鷹野の姿を見ただけで、名前を知ったのはその数日後だった。鷹野が直接離れに来たのだ。

滅多に来訪者のない離れにノックの音。コンコン、と扉をたたく音に啓人は体を強張らせた。動きを止めて、物音を立てない。居ないのだと思って引き返してくれないだろうか、と啓人は願った。だが、啓人が家からほとんど出ないことは周知のことで、啓人は諦めて恐る恐る扉を開いた。

「あ、あの、なんでしょうか…?」

「あぁ、よかった。居られないのかと思いましたよ。」

ほんの少し開いた扉から顔を出した啓人の目の前にいたのはスーツを着た男だった。先日、父親の後ろを颯爽と歩いていた男。遠目から分からなかったが、男は実に整った顔をしていた。すっと通った鼻筋に、切れ長の目。黒い髪は後ろに撫で付けられ、額が露わになっている。嫌に長身で、服の上からでもその引き締まった体がありありと分かった。

「私、鷹野一成と申します。先日から、組長のお手伝いに参りました。」

よろしくお願い致します、と挨拶をされた啓人はどうしたら良いのか分からず、え、えと、と返すのが精一杯だった。組長とは亮一郎のことで間違いないが、何故わざわざ啓人の元へ来るのか分からなかった。亮一郎が啓人のことを良く思っていないことは皆知っていることだ。何のメリットもない子供へわざわざ挨拶に来るほど暇なのだろうか。啓人は鷹野の顔を困惑気味に見つめた。

「あ、そうです。これ、良かったら召し上がってください。啓人さんは甘いもの大丈夫ですか?」

「え…、大丈夫で、す。」

「なら良かったです。さ、どうぞ。」

無理やり手に持たされたのは、どこかの高級ホテルの紙袋だ。

「これからよろしくお願いいたしますね。急に訪ねて申し訳ありませんでした。では、お暇させて頂きます。」

スッと腰を折った鷹野は頭を上げると啓人の頭をふんわり撫で、踵を返した。遠くなる鷹野の背中を見つめながら、啓人はお礼を言い忘れたことに気づいた。手の中にある紙袋に困惑しながら、啓人も扉を閉めた。

不思議な男。それが啓人の、鷹野に対する第一印象だった。






ブン…と微かな低い機会音と、ノートに文字を書きこむ音だけが部屋に響く。数式から答えを導き出した啓人は、ほうと息をついた。あと数問でこの課題も終わる。

「さすが啓人さん、正解です。」

顔を上げると、鷹野が微笑んでいた。褒められる事に慣れていない啓人は曖昧に頷いた。鷹野さんのお陰です、と言いたいのに中々声に出せない。そんな自分に幻滅する。

ふと視界に入った冷蔵庫。最近は鷹野が部屋に来るからと、麦茶を冷やしているのだ。お茶さえ出していないことに今更気づいた啓人は慌てて立ち上がった。

「あ、あの、お茶…、の、飲みますか?」

「それなら、私がしますよ。」

一瞬、目を見開いた鷹野は微笑んで立ち上がった。それでは意味がない、と啓人が止めようとしたとき。

「鷹野、ここにいるんだろ!」

突然の乱入者。ズカズカと我が物顔で入ってくる男は、啓人の兄である井口洋祐だ。見るからに痛んでいる金色の髪の毛をしている。前髪を横に流し、着ているスーツはブランド物だというのにどこか安っぽく見えてしまうのは、鷹野を見慣れてしまったせいだろう。

「利島のとこに行くから、車出せよ。」

車を運転する人間なら他にも当然いるが、洋介は事あるごとに鷹野を連れまわす。洋祐のお気に入りなのだ。鷹野のように完璧な人間を従わせることに洋祐は優越感を覚えている。

鷹野はほんの少し困ったような顔をしながらも、さっさとしろ、と洋祐に言われると素直に従った。

「啓人さん、途中なのに申し訳ありません。」

「い、いえ。もう、大丈夫、ですから…」

兄の視線を感じて、啓人はヒヤリとする。鋭い視線はまるで監視をされているようで息が詰まった。早く出て行ってくれないかと、心の中で願う。

「おい、啓人。お前も来るか?」

名を呼ばれ、啓人は傍目に分かるほど肩を震わせた。できるだけゆっくり顔を動かす。
兄の口元は何が楽しいのか弧を描いていた。嫌な笑い方だ。
啓人は兄のことが好きではなかった。兄だけではなく井口にいる人間を好きだと感じたことなどないが、洋祐は尚のことだ。放っておいてくれれば良いのに、洋祐は何かと啓人に声をかけてくる。そして、困惑する啓人を見て楽しんでいるのだ。

「い、いえ…、ぼ、僕は課題があるから…」

「ふん、つまんねぇやつだな。まぁ、いいさ。行くぞ、鷹野。」

わざとらしく肩をすくめた洋祐は、鷹野を連れて出て行った。バタン、と扉が閉まる音がして、ようやく啓人は詰めていた息を吐いた。疲れた。兄の来訪はほんの少しの時間だったというのにドッと疲れが襲う。同じ空間にいるだけで息が詰まるような思いをするのだ。何を好き好んで兄と出かけたいと思うものか。啓人はそこまで考えて、鷹野の場合は2人きりでも息苦しくない自分に気がついた。

鷹野は基本的に優しい。常に柔らかい笑みを湛え、啓人を見つめてくる。初めて出会って以来、鷹野は事あるごとに離れを訪れ啓人に構う。一緒に食事を取ることもあれば、今日のように勉強を教えてくれることもあった。口下手な啓人に苛立つこともなく、鷹野は啓人に付き合ってくれる。
時折見せる獰猛な獣のように鋭い目は、啓人の心をヒヤリとさせることがある。まるで、肉食獣に睨まれた小動物のような気分になるのだ。だが、決して不快なわけではなかった。
鷹野以外の誰かにそんなことをされれば、ただただ萎縮してしまうというだけなのに。鷹野だけは違った。啓人にはそれが不思議でたまらなかった。



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あきゅろす。
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