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ばにらのくちびる

「沖田課長、唇荒れてますね」
 社食で向かいに座った経理の女の子達の一人が不意にそう言った。
 沖田が鯖の味噌煮を咀嚼しているせいで答えられずにいると、隣りに座った部下の岩本が
「って、どこ見てんだよ」
 と笑う。
「口開けると痛くないです?」
「少しだけね」
 沖田は三十をとうに過ぎていた。しかし多少険はあるが涼やかに整った外見と真面目な性格の為に、社内でも、あまつさえ社外でも絶大な人気を誇っている。
「冬になると毎年なんだ」
 薄めで形の良い唇を多少微笑ませて、沖田は言った。
「知ってます? 舐めちゃ駄目なんですよ」
「へえ」
「舐めると余計荒れますよ」
 沖田の隣りでは、岩本が妙に複雑な顔でアジフライをさくりと噛む。
「…舐める、…ねぇ」
 けしからぬ妄想にこっそり呟いた声に、沖田がノンフレームの細い眼鏡を少し押し上げる。
「ん? どうした、岩本くん」
「何でもないです」
 岩本は高校に上がったその年に自分がゲイだと気付いた。気付いた性癖に悩む暇もなく受験や勉強に追われ、気付けば新社会人、そして勤続五年が経とうとしている。
 大学の時分にその手の場所をうろついたりはしたものの、顔見知りや友達が出来た程度でろくに付き合った事もない。
 けれど自分の好みだけははっきりしていた。
「リップクリームつけた方がいいですよ、課長」
「そう?」
 怜悧な刃物の様な美貌が好きなのだ。性格も多少尖っているのが良い。
 そう、沖田の様な───
「…岩本くん?」
 確かに乾燥している薄い唇に見入っていた岩本は、訝しむ沖田の声にはっと我に返った。
「は、はい?」
「どうした、ぼうっとして」
「や、なんでもないです」
 慌ててご飯をかき込んで喉に詰まらせかけ、温くなったお茶を流し込む。
「あ、そうだ沖田課長」
 レディースセットを綺麗に平らげて談笑タイムに入っている女性陣の一人が、がさごそとポーチをあさって
「じゃーん」
 と効果音付きでスティックタイプのリップクリームを取り出した。
「まだ使ってないので、良かったら使って下さい」
 差し出しながら言った台詞に沖田は戸惑う様な顔をする。
「使ってないって、堀越さんが使うから買ったんじゃないの」
「実は使いかけでなくしたと思って昨日買ったんですけど、前のがバッグの底から出てきたんですよ。封は開けちゃってますけど使ってないので」


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