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甘苦


 目の前の妻は、さっきから黙々と食事とワインを片付ける事だけを考えているらしい。このしっかりとしてやわらかい小羊も、丁度良い重みと軽さを持った赤ワインも、彼女には、いつもの様に意味の無いものなのだろう。
 目を合わせようともしない。自分でいうのも何だが、よくこんな可愛げのない女と結婚したものだ。
 癖のない小羊には赤黒いソースがかかっていた。ナイフを入れて、口に運ぶと酸味と甘味が複雑に絡み合う。良く利用するレストランで、しかもコースはシェフに任せたのだから、妻も文句は言えないはずだ。
「───…何か言う事は無いの?」
 白身魚とゼラチンを混ぜたチキンスープを薄く何層にも重ねた上品な冷たい料理を、親の敵の様に扱いながら、刺々しい低い声を彼女は出した。
 小羊の最後の一口を飲み込んで、残ったソースを少しパンに付ける。
「話なら昨晩ので全部だ」
 念入りに描いた綺麗な眉がぐっとつり上がる。メデューサの様なその顔がとても滑稽で、小さく苦笑した。
「よしなよ。怒ると不細工になる」
「させているのは誰よ!」
 管弦楽が流れるフロアに響き渡った声に、視線がざっと集まる。今度は夜叉の様な顔で、彼女は睨み付けた。
 うんざりと溜息を吐いて、料理に戻る。緑と赤の温野菜に真っ白い自家製マヨネーズを乗せ、その彩りに少しだけ幸福をおぼえた。
「世間体ってものがないのね」
 さすがに気まずそうに声をひそめた彼女が憎々しげに呟いて苦笑を誘う。
「どっちが?」
「あんたよ」
 紅い唇が吐き捨てる。
「浮気の影も見せないで『好きな人ができたから別れてくれ』なんて、納得できるわけないじゃない。しかもあたし来月で課長になるのよ。どれだけタイミング狙ってるのよ」
「箔がついていいじゃないか」
「…馬鹿にしてるの」
「まさか」
 少し離れたテーブルの老夫婦が───特にご婦人が聞き耳を立てていたが、かまわずに言う。
「仕方ないだろ。言ったよな、男が好きみたいなんだって」
 彼女は物凄く険しい顔をして、右手のナイフを震わせた。
「いいじゃないか、子供もいないし、きみは美人でまだ三十前だ。すぐに相手が」
 ナイフの持ち手が皿に当たって物凄い音を立てる。温野菜の皿がひっくり返り、ワイングラスが被害を被った。
 給仕の一人が慌ててチーフを呼びに行ったらしいのが見え、彼女は世にも恐ろしい表情で立ち上がる。




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あきゅろす。
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