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残光の国U




 印象には、あまり無い。
 ただ、切れ上がった鋭い瞳だけが記憶に残った。
 三日程でそれは消えたが。




 生ハムとチーズのベーグルサンドを囓りながら、濃いめのカップコーヒーを啜る。
 たまには優雅に二時間三時間と時間をかけて昼食を楽しみたいものだが、これで土曜だというのだから仕方が無い。平日のそれに比べればまだましだろう。
 書類とパソコンですっかりやられてしまった視界を細いフレームの眼鏡で補う。
 ずきりと頭の芯の方が痛んだ。きつく眉を寄せる。
 彼の秘書はこの仕草を嫌うのだが、彼女を気遣うような優しさを、男は持ち合わせていない。
「森屋医院の予約は明日の午後に入れておきました」
「ああ」
「それから、荒砂興産のお嬢様の件ですが」
「何度も言わせるな。断れ。結婚する気はさらさらない」
「……はい」
 肩の凝りと頭痛がぐっと増したような気がした。
 たった一代、しかもほんの十年と言う短時間で築き上げた彼の王国は、決して脆くない。
 有能な部下と、強力なバックアップと、彼自身が、複雑に絡み合い支え合う。それが、彼の会社の強さだった。
 彼が挫けてしまってはバランスが崩れる。
 取引先の小娘と結婚な 、どうしてできようか。この、精神的に不安定なままで。
 あの西日の当たる部屋、と彼はクリニックの待合室を思い出す。
 あれを、慈愛の空気とでも言うのだろうか。
 やわらかい、ベージュとオレンジの複雑な色。
 あの空気の為にあそこに通っているようなものだ。
 会社に向かう車が信号で停まった。
 不意に全身の感覚が波のように引いていく。きたな、と彼は目を閉じた。
 不安も、悲しみもない。
 同じように、喜びも消え失せる。
 全身ががらんどうになって、えも言われぬその感覚に呼吸さえ苦しくなる。
「魔法の飴を出しましょう」
 年若い女医のその言葉に彼は冷たく嘲笑したが、今では笑い飛ばす事などできない。
 小さな飴をポケットから取り出して、舌に乗せる。甘ったるい桃の味。
「これは魔法の飴。自分を、現実に引き戻す為に使うの。いい?」
 悪用は駄目よ、と楽しそうに、黒髪の美人は笑った。
 気休めだ。
 偽薬と呼ぶのも幼稚なその『魔法の飴』を、彼は分かっていながら手放せない。
 ゆっくりと呼吸が楽になる。目を閉じたまま車の天井を仰ぎ、深く息を吐いた。
 明日の午後が、いやに遠い未来のように感じられた。
「───そういえば、先日森屋医院で鷹目弁護士をお見掛けしましたが…通っていらっしゃるようですね」
 秘書が膝の上のノートパソコンをしまいながら言った。
「鷹目?」
 喉の奥で唸るように聞き返す。おぼろげな記憶に、鋭く切れ上がった目の男が浮かぶ。
「ふん」
 彼は適当に話題を切り捨てる。
 殺人的な真昼の光を反射するビル街を、彼を乗せた車は通り抜けていった。
 








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あきゅろす。
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