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残光の国Y


 その国は、日没が微かに残る時の中で永遠を刻む。
 人々はほんの僅かな光の名残の中、手探りで互いを確かめる。
 愛する者を、確かめる。




「あれじゃもう駄目だ。元々気休めだから駄目だ。もう効かない」
 金の視線を空ろに投げ出したまま、早口で黒湖は言った。
 女医はたった数日で急変した彼に───彼らに眉を顰め、密かに溜息を吐いた。
「…何かあったの?」
「お前には関係無い」
 午前中最後の診察で、鷹目も似たような態度で口を閉ざした。───それでも彼は、今、目の前でこちらを見ようともしない男よりも大人げがあったが。
「…もう駄目なんだ」
 ベルトの上で組まれた指先には、白くなる程力がこもっている。神経質な仕草で、黒湖はほつれた髪を撫で付け、顔の端まで続く傷跡に触れた。
「………残念だわ」
 女医がそっと呟いた声を、黒湖は一応聴いたようだった。その虚ろな目にほんの少しだけ、かつて浮かべていた光を取り戻し、女医を見る。
 女医はその曖昧な視線を真っ直ぐに見返して、
「残念だわ。本当に」
 今度ははっきりと、静かに告げた。
 黒湖は無造作に口を開いたが、向かい合う女医の目に、強い怒りに似た光を見、たじろいだ。
「あなたたちは、やっと互いを見付けたのだと思ったのに」
 よりそうものを。
 埋めるものを。
 引き止める唯一を。
 彼らはやっと見付けたはずなのに。
「あなたはただの怖がりだわ。肝心な時に、逃げようとする」
 まくし立ててから、女医ははっと口を噤んだ。
 悲しい顔をして、黒湖は俯いていた。
「……俺は、…逃げて…いるか?」
 これじゃ医者失格だわ、と女医は額に細い指を当ててこっそり溜息を吐く。
 黒湖は数日前に届いた鷹目からのメールを思い出していた。
 ───逃げないでくれ。傷付けたいわけではないんだ。
 逃げているのか。
 いったい何から?
「……言い過ぎたわ。ごめんなさい」
 女医の静かな声に、黒湖はゆるく首を振った。
 ひとに心を開くのが。
 誰かとそうしてふれあうのが。
 いつからだっただろう。
 とても怖くなったのは。
「……嫌われるのは、いやだ…」
「…誰だってそうよ」
 あの夜、ほんの一瞬抱き締められた。それだけでわかった。
 彼を好きだと。
 けれど酷く怖くなった。
「…これは正しい事か?」
 消え入る様な声を唇に乗せると、女医は静かに
「どうしてそんな愚かな事を訊くの。
あなたは、正しくても間違っていても、かまわないと思っているのに」
 そう答えた。


 まぼろしの様な、夕日の中で出会った。
 ただ一人、自分をこの世につなぎ止めた。
 やさしいひと。

 ほのかな橙の夕日が、彼を淡く包んでいた。
 ただ一人、私に生きる意味を与えてくれた。
 うつくしいひと。


 診察室を出ると、廊下や待合室にはもう電気が点っていた。いろいろな事を心の中で決めたのに、人工的な光がそれを少しだけ削ぐ。
 けれど黒湖は、受付に現われた女医と、顔見知りの看護師の笑顔に送られて医院を出、すぐに携帯の電源を入れた。
 着信とメールが何件かあったが、真っ先にアドレス帳を開く。立ち止まり、目を閉じた。
 二回目のコールで、相手は出た。
 黒湖は、はい、と言った相手の声にかぶせる様に、用意していた言葉を言う。
「もう俺はあんたから逃げない。
話がある。
あんたに、話がある。俺は」
「───先に、私に言わせてくれないか」
 すぐ近くからの声に、黒湖は驚いて目を開けた。
 街灯の下に車が停められ、その横に、見覚えのある長身の男が立っていた。
「……どうして」
 呆然と呟いた黒湖に、ほんの少しずれて声が届く。
「きみの秘書に無理を言って…きみを迎えに来たんだ」
 男はそれだけ言って、耳に当てていた携帯を下ろし、ぱたりと閉じた。
 通話を切った黒湖は、自分の目の前に立った男の顔を見上げて、苦しそうな表情を浮かべる。
 男は───鷹目は、携帯電話を握ったままの手をそっと取ると、優しい笑みを向けた。
 街灯の光が影を作って、濃くなってゆく闇の中に二人を紛らせる。
「きみのものになりに来た」
 低い声がそう囁いた。
「きみを───私のものに、しに来た」
 互いの指が、ゆっくり絡んだ。
 黒湖は鷹目の真摯な視線から目を逸らせずに、ただ見つめ返す。
「逃げないでくれ」
 夢ではないかと目を閉じると、その瞼の上にやわらかく口付けがおちた。
「逃げないでくれ───」
 繰り返す鷹目の背中に、穏やかに黒湖の腕がまわる。
 全ての感覚が鮮やかに彼を認識する。
 幸福な抱擁の中、薄く目を開けると、西の空にほんのわずかに、太陽の光の名残が見える。
 抱き締める強さに応えるように、黒湖は背中にまわしたその腕に力を込めた。
 あまりにも、幸福な抱擁。
 二人きりの、残光の国。





終.




2005.10.16pm



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あきゅろす。
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