[携帯モード] [URL送信]
残光の国X


 望んだものはなんだった?
 こんなにも、こんなにも、
苦しいものだっただろうか。




「アドレスと電話番号を交換したんだ」
 得意げに、まるで十代の子供のような事を鷹目が言うので、女医はおもわず苦笑した。
「…笑ったな」
 鋭い目をいよいよ険しくして、鷹目は低く唸る。
「発作も最近は起きないそうなんだ。知らなかっただろう」
 女医はたまらずくすくす笑い出して、鷹目にいよいよ渋面を作らせた。
「失礼な」
「ふふ…ごめんなさい」
 それで、あなたの方は?と訊いて、足を組み替える。
「問題無いとも。今日もこれから約束がある」
 目を細めた女医には、彼が酷い様子でここに来た日の事が、まるで幻だったようにも思えた。
 固まったまま、やっとのことで皮肉な愛想笑いを浮かべ、抑揚の無い、きつい口調の早口で喋った。
 私は空っぽなんだ。砂で出来ている。いつもいつも、ここが空っぽなんだ。
 胸を押さえながら、そんなふうに。
「居酒屋だよ。ごく普通の、接待では行かないような」
 いいだろう、と鷹目は口髭を撫でてにやりと笑う。
 子供が二人、目新しい遊びに夢中なのだ。
 女医があまりに微笑ましくてまた目を細めると、鷹目はまた顔をしかめ、
「失礼な」
 少しだけ笑みを浮かべた。

 黒いハイヤーが信号で止まった。中から、コートを抱えた黒湖が慌てた様子で現れる。
「すまん、遅れて…」
 すらりと高い背に、色素が薄めの外見に良く似合うグレーのスーツ。琥珀の瞳。
「……髪が」
 いつもは後方に撫で付けられている髪が、下に降りて、多少乱れた様子。
 鷹目がおもわず言った言葉に、黒湖は少し俯いて、こめかみの辺りの髪を困ったように撫でた。
「急いで…来た、から」
「いや、その、」
 一瞬暗くなった黒湖の表情に鷹目は慌てる。
「似合う。……随分若く見えるな」
 焦って紡いだ言葉だったが、黒湖は笑みを浮かべて、そうか? とくすぐったそうな小さな声で答えた。

 ざわつく店内を鷹目は物珍しそうに見回したが、黒湖は慣れた態度で、忙しく立ち回る店員を呼び止め、注文をする。
「───慣れているんだな」
 つきだしのマカロニサラダを興味深く観察して、鷹目が言う。黒湖は煙草に火を点けて苦笑を見せた。
「まあな」
 あんたとは育ちが違うから、と黒湖は笑って薄く紫煙を吐き出す。
 その笑みが自嘲では無い事に、鷹目は安堵した。
 あたたかく騒がしい空気は二人を寄り添わせ、低い声での会話は他愛ない内容をひどく秘密めいたものにさせる。
 いつもより少し饒舌な黒湖だったが、ラストオーダーをとりに来た店員に鷹目が会計を頼んだ途端に、口を閉ざした。
 酔客が連れ立って帰ってゆく。
 黒湖が伏せていた目を上げ、無言で立ち上がった。鷹目は薄暗い色を浮かべるその横顔を見つめながら、どうしたのかと口を開く。
 しかし、声は出ない。
 ビルの地下にあった店を出て、二人は無言のまま階段を昇る。
 だいぶ夜も更けたが、未だネオンが光る地上に出て、黒湖は急に、立ち止まって振り向いた。
 夜の街の薄い光を受けて、まるで宝石のような輝きを帯びた目が、じっ、と鷹目を真っ直ぐに映す。
 鷹目には、その瞳の奥にある恐れを見る事は出来なかったが、いやに悲しい顔をする、と見返した。
「…少し、」
 と、黒湖が口を開いた。
「……酔ったようだ…」
 そうして、ゆら、とコートの裾を揺らして鷹目に背を向ける。その、僅かに細身の後ろ姿に、鷹目はおもわず手を伸ばした。
 酔う程飲んではいないが、多少軽やかな気分だった。突然の接近も、軽い抱擁も、笑って済ませられる程度の。
 一瞬、鷹目の腕に身を任せた黒湖は、次の瞬間、その腕を振り払うと、喉に手を当てて道に膝をついた。
 あまりにも急激に襲いかかってきたそれは、鷹目をひどく慌てさせる。
「黒、黒湖…!」
 自らその傍らにひざまずいて、いつかのように手を伸ばす。
「黒───」
「さわるな!」
 荒れた声で、黒湖は悲鳴を上げるように叫んだ。
「おれに、さわるな…!」
 腕に食い込ませた指が熱い。
 打ちのめされた鷹目の顔を黒湖は見ずに、ただ、苦しい息をして、さわるな、と繰り返した。

 駄目だ。
 きっと、魔法を求めるように彼を望むだけでは、済まなくなる。
 俺は弱いものになってしまう。
 彼と、せめて対等でありたいのに。


 彼と、ずっと肩を並べていたいのに。






[前][次]
[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!