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音の無い窓

 忘れるものか。
 何を捨ててもいいと、思ったのだ。



 北国は雪の季節で、安岐はその、全身に染み込む様な寒さに肩をすくめた。隣でも妻と娘が同じ様に襟をかきあわせ、寒い寒いとどこか楽しそうに言う。
 空はきんと耳が鳴る気がするほど晴れて、凍った水の色をしている。
 踏み固められた雪道を想像していたが、駅前通りの歩道はロードヒーティングで煉瓦やアスファルトが見える。
「晴れて良かったわねぇ」
 信号待ちの間、妻が言う。歩道とは逆に、車道は氷と雪でスケートリンクのようで三人はそろそろと足を進めた。
 それでさえ多少着脹れ気味の三人を、次々と地元の人間が追い越す。
「よく滑らないわね」
「そりゃそうだろう。半年は冬なんだから」
「ねえ、時計台に行くんでしょ?」
 タウンガイドの地図を開いて、娘が言う。立ち止まった家族を、邪魔そうな顔で会社員が追い抜く。
「今がここだから、…」
「じゃあこの道を左ね」
 妻と娘の仲睦まじい様子を安岐は幸福な気持ちでみつめた。四十を越えたばかりの安岐は秋に部長に昇進し、中学三年の娘は有名私大付属の高校に進学が決まっている。
 どこから見ても幸福な家族そのものだろう。
「パパ、ぼーっとしてると置いてくわよ」
 少し先に進んだ妻が言うと娘が笑う。安岐は笑い返して、踏み出した。
 その時だった。
「あ、失礼」
 歩き出しざまに安岐はスーツの男と絡むようにぶつかった。焦茶よりは幾分明るい髪の若い男は、安岐をちらりと見るとほんの僅かに会釈して、無言で去る。
 ───愛してるなんて言うなよ。
 皮肉に笑う声が急によみがえった。安岐は降り払うようにぶるりと頭を振る。
「パパ?」
 安岐の腕に手をかけた娘が不思議そうな顔で覗き込んだ。
「あ…ああ、行こう」
 どうかしている、と足下に目を落とす。
 全然、似ていやしなかったじゃないか。しかもこんな、故郷からは遠く離れた場所で。
 葉の落ちた街路樹を黒々と浮き上がらせる白い時計台は、色の無いビルに囲まれて所在無さげな顔をしていた。観光客同士で互いにカメラを頼みあい、写真を撮る。
「テレビ塔ってどっち?」
「ここからは見えないのかしらね」
 次はテレビ塔か、と安岐が二人に訊くと、
「そうよ。あとは藻岩山」
「ママ、それは明日だってば。あとね、JRタワー」
「そんなに急いで高い所ばっかり回ってどうするんだ」
「いいじゃない」
 寒さと興奮で大層テンションが高い二人はどんどん歩き出す。
 すぐに赤と緑のテレビ塔が家族の目の前に現れた。入口の土産物屋で、テレビ塔を模した、とぼけた顔のぬいぐるみを抱き上げて、娘が安岐を振り返る。
「パパ、これ、千葉の伯父さんにそっくり」
「あら、ほんと」
「ほら二人とも。展望室に行くんだろ。土産は後でいいじゃないか」
 安岐は苦笑いを浮かべて、二人をエレベータに追いやった。
 観光客を詰め合わせたドアが閉まる。ゆっくりと離れて行く地上に、安岐は薄く目眩を覚えた。
「───安岐」
 安岐は最初、それを空耳かと思った。
「安岐」
 動くエレベータの音に重なって、耳元で低く掠れた声が聞こえ、一瞬暗くなったガラスに、自分の後ろに立つ男の顔が見えた。
 途端に全身が冷えた。
 足下から、現実のものではない寒さが這い上がる。
 妻と娘は眼下に広がる風景にはしゃいでいた。安岐だけがただ一人、喘ぐような息をする。
 安岐は振り向いて、自分の真後ろに立つ男を見た。
 適当に伸ばしたふうの焦茶の髪に、冷たい印象しか与えない一重の切れ長の目。
 彼の雰囲気は当時の尖った華々しさに、二十年を経て、朽ちてゆく豪華な花のような色気を含むようになっていた。
 唇が意地の悪い笑みを浮かべる。
 あの夏と、それは全く変わらないように見えた。


 暑い。
 寒い。
 相反する感覚が体の中に渦巻いて、突き落とされては浮かび上がる。
 夢でいい。
 現実でいい。
 彼と二人ならどっちだってかまわない。


 訝しがる目で妻は彼を見た。誰だってそうだ、と安岐は思う。
「大学の、友人で」
 舌がもつれるような気がした。
「各務です。どうも、はじめまして」
 薄笑いを引っ込めて愛想良くしていれば、各務ほど人の心を掴む男はいない。思った通り、妻はその整った外見にころりと騙された。
「あら、でも主人とは…」
「私が音信不通になってしまって。…海外を飛び回っていたんですよ」
「あらあ、なのにこんなところで再会できるなんて、凄い偶然ね」
 ほんとうに、と答えながら各務は安岐に向かって目を細める。安岐はその視線から顔を背け、展望室から見える景色を遠い目で見た。
「ご家族で旅行ですか。こちらは雪が多いでしょう」
「ええ! 各務さんは…」
「二年ほどここで暮らしています。
…靖典くんを───安岐くんを少しお借りしてよろしいですかね」
 やすあき、と各務は二十年前と同じ調子で呼んだ。妻は
「ええ、積もる話もおありでしょう。パパ、後で電話して」
 言って、離れて行く。安岐は、途端に冷たい目をした男の隣りで俯いた。

「お前とこうしてゆっくり話す事なんて無かったな」
 テレビ塔の根元が見える喫茶店で、安岐と各務は向い合って安いコーヒーを啜っていた。
「…まともに話した記憶もないけどな」
 会うのはいつも、どろりとした熱帯夜が詰まったベッドの中。
 ただ探り合い、ただ重ねただけの身体。知るのは、互いの名前だけ。
「大学の友人か」
 もともと感情の起伏が薄い各務が、いやに可笑しそうに微笑む。安岐は戸惑うように各務を見た。
「まあ、二十歳の頃にセックスしていた男だとは言えないしな」
 二十年。
 人を支配する毒の刺は今尚鋭い。
「……もう少し違う出会い方をしていれば良かったのにな、俺達も」
「───…」
 各務の台詞に安岐は無言でその目の奥を見る。
 各務は伸び気味の髪をくしゃりと撫で、足を組み替えた。
「各務」
「いや、…どうって事ない感傷だ。もう会う事もないだろ」
 安岐を屈伏させながら、各務は時折いやに苦しい顔をした。安岐の目尻から零れた涙に口付けながら、何もかも諦めるような目をした。
 その表情を見付けて、安岐は喉のあたりが詰まりそうになる。
 各務はコーヒーを飲み干すと立ち上がった。すらりとした彼をどこか眩しそうに見上げ
「各務、」
 口を開いた安岐を、押し止めるように各務は微笑する。
「各務」
 忘れようとした。
 忘れたいと思った。
「じゃあな」
 最後の朝、いつものように言った。秋の気配がした日の事だった。
 各務が店を出て行くのを、安岐はどこか呆然と見送った。
 ガラスの向こう、コートのポケットに両手を突っ込んだ各務が、ふと振り返る。安岐は薄く笑うその唇が、かすかに動くのを見た。
 安岐は慌てて立ち上がり、後を追うために店を出る。
 各務は雑踏に消えていた。
 降り出した雪のひとひらに我に返った安岐は、店のガラスに映る自分を見る。
 情けない顔だ。
 呟いた声が宙に透けた。







2006.01.12
20000打リク:西秋さん



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