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世界のすべてが甘いものだったら良かった

 吸い込んだ息でとうとうむせた。肺だか心臓だか、もう内臓や血管がいっしょくたになって、息をするので精一杯だ。
「ちづる」
 差し延べられた手をぐっと握る。夜になって空気はどんどん下がるのに、その手は燃えるように熱い。
「少し休むか」
「いい、大丈夫」
 顎の辺りを滴る汗を、シャツで乱暴に拭って、ちづるは言った。
「…行こう」
「ん」
 地の果てまでだって一緒に行く。
 そう決めたのだった。



 牧島ちづるは、稀少種として最高レベルの保護観察下におかれていた。
「なあ、フィリ」
 純日本種の雄は、標準と比較して固体維持がやや困難とされる、二級種に分類されている。
 特に若い雄は肉体的にも精神的にも不安定。その扱いには一瞬たりとも気が抜けない。
「フィリってば」
 観察官のフィリは甘えるような声にやれやれと溜息を吐いた。
「どうした」
 ちょいちょいと手招きをするので近付くと、耳をつかまれる。
「…ちづる」
「いいなあ、狼との混血だっけ?」
 耳の付け根の柔らかい毛を撫でて、ふかふかしてる、と嬉しそうに笑う。
「純種なんてつまんない」
 笑ったと思ったら暗い目をする。フィリは耳を掴む手を離させて、不満そうなちづるの頭を撫でてやった。
「…交配の為だけに生かされてるって、意味あんのかな」
 呟いた言葉に、フィリは口を閉ざす事しかできない。
「フィリ」
 いつも、こう言うとフィリは暗い顔をする。まるで自分の事のように。
「フィリ、ごめん。フィリ」
 ちづるはいつも、いつも、そう繰り返してフィリを抱き寄せ、まるでこの世に二人だけのようにじっと目を閉じるのだった。


「……え」
 狐によく似た男が現われ、ふさりと尻尾を振る。男が告げた言葉に、ちづるは目を見開いた。
「フィリは…?」
「フィリ観察官は転属になった。今後は私が…」
「いやだ!
フィリを、連れて来い…!」
 男は細い目に嫌な光を浮かべると、手元の書類をめくった。
「8405番、マキシマ・チヅル」
「気安く呼ぶな!」
 叫んだ喉元を、短い鞭の先がかすめる。男は冷たい光を浮かべる眼鏡を、く、と押し上げて薄く笑った。
「私をフィリと同じ忍耐力の持ち主だとは思わない方がいい、8405番」
「……誰が思うかよ」
「口のきき方に気をつけろ、脆弱な二種が。お前に劣性の判を捺せる権利を私は持っているんだ」
「…そうだな、あんたは、フィリとは全然違う」
 ちづるは低い声で男を睨む。
「フィリは狼との混血だったけれど、あんたよりよっぽどまともな人間だった」
 顔に向かって振り下ろされた鞭を、ちづるは咄嗟に手の平で受けた。血が滲んだ手を握り締めると、嘲笑を浮かべる。
「良く考えて振れよ。顔に傷が残ったら、あんただってただじゃ済まないんだからさ」
 三度目の鞭は、肩に振り下ろされた。


 日中蹴られた腿が鈍く痛んで、ちづるは消灯時間を過ぎた闇の中でぼんやり光る非常灯のオレンジの光を見ていた。
 その光がふ、と消えて、ちづるは身を起こす。空調の音がゆっくりと止まった。
 今まで起こった事のない事態に、ちづるは闇を睨んで全身を強張らせる。
 足音が近付いて来るのが聞こえて、慌てて布団をかぶった。
 いきなりドアが開き、ライトがちづるを真っ直ぐに差す。
「───ちづる」
 聞き覚えのある声に、懐かしい声に、───
「……フィリ?」
「ちづる」
「…フィリ!」
 飛び付くように抱き付いて、ちづるはフィリが大きな荷物を持っているのに気付いた。
「システムダウンは十分だけだ。もう、五六分しかない」
 どこへ行くの、とは聞かなかった。ただその濃い紫の目を見ればわかる。
「フィリ、俺を」
「おいで」
 手を、きつく握りあう。
「一緒に…」
「一緒に」
 フィリはちづるの肩に軽いコートをかけて、頬に素早いキスをする。
「行こう」


 地の果てまでも。




お題配布元:−avventurina





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