舌
私の世界にはなにもなく
私の世界には彼だけがある。
舌
まな板の上から床に逃げた肉を、摘みあげて申し訳程度に水で洗う。
食肉用の動物に病気が広まったのはもう十年ほど前になる。肉は貴重品になり、金持ち以外の人々は、大まかな意味での菜食主義者になった。
焼き肉、すき焼き、ステーキ、ハンバーグ、フライドチキン、ハンバーガー……肉をメインに使うありとあらゆる料理が、名を残すだけになった。
「おはよう、ムヂシャ」
「ああ、おはよう、フラウ。すぐにご飯にするよ」
「ありがとう。コーヒーを貰える?」
淹れたてのコーヒーをフラウに渡す。
「いい匂い」
「コーヒーが?ベーコンが?」
「コーヒーが」
笑いながらフラウが言う。
「でも、大丈夫?肉なんて…」
「言ったろ。友達が精肉会社に勤めてるって。大した事ない下級肉だよ」
そうだ、肉は、いまや高級品。
フライパンでは脂身と赤身が程よく入り交じる肉が、じゅうじゅうぱちぱちと油を跳ねさせている。
塩胡椒を軽く振って、真っ白い皿に移す。同じフライパンでキャベツともやしをさっと炒め、トマトを切り、添える。
「できたよ、フラウ」
薄い灰色───白に近いフラウの目は何も映さない。
「パンは左手側。バターは塗ってあるよ」
「ありがとう」
細い白い指に、フォークを握らせて、食卓につく。
「おいしいベーコンだね」
かりかりになったベーコンを、器用にパンに乗せて、一口。フラウがそう言って微笑む。
「ああ、そうだね」
「ムヂシャがいてくれて良かった。こんな時に肉が食べられるんだから」
「はは。現金な台詞だなあ」
フラウ。
フラウ。
俺のすべて。
「友達にも、お礼を言っておいてよ」
「ああ、伝えるよ」
だからお前は何も見なくていい。
何も知らなくていい。
「本当においしい」
その肉が、何の肉かなんて、知らなくていいんだ。
「肉には、育てた人間の愛情が染みるから美味いんだって」
「へえ」
フラウ。
お前は知らなくていいんだ。
その肉が
ほんの数日前まで手紙を届けてた郵便屋だなんて。
「本当に」
おいしい、ね。
と、フラウは繰り返し、笑った。
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