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原始の雨



 いくつも転がったホルベインのチューブを踏みかけて、踏み場を間違った事に気付いた。
 踏むべきは床でも絵の具でもなく、この男だ。
「踏むぞ、庵田」
「予告すんなよ、サドいなぁ」
「転がってる方が悪い」
「いていて。やめて、そこ、昨日机の角にぶつけたんだ」
 よいしょ、と掛け声をかけて起き上がり、バリカンで刈っただけの坊主頭を掻く。二の腕の筋肉がいやに芸術的に見えて、自分にうんざりする。
「冷えてきたな。ストーブ点けてくれ」
「自分でやれよ」
「引き出しにチョコあるから、食っていいぞ」
「お前な、まともに会話する気あるのか」
「うーん」
 生返事に諦めて、古めかしい灯油ストーブを点火する。絵の事は詳しくないが、庵田の描いている油絵がやたらに大きいので、大きな仕事でも入ったのか、と考える。
 首、肩、腕、胸、腹。
 庵田は全身で絵を描く。これだけ大きな絵なら、それを描く庵田も見応えがあるだろう。
「しばらくだったな。ちょっと痩せたか?」
 絵の具をこねだした肩の辺りにぼうっとなっていて、慌てる。
「痩せたかなんてわかるかよ」
 ストーブにあたりながら粒チョコを囓って答えると、───狭い部屋だ。急に振り向いた手が腰を捕らえた。
「この辺の肉が」
「触るなよ、気色悪い」
「痩せたな」
 触るな、と言いながらされるがままになる。
 庵田は体温が高い。その野性的な視線やしなやかな体躯から、原始の熱がぶわりと放射されているような。
 うなじを撫でた指先に、ざらりと、あまりに短い髪が触る。
「…放せよ」
 台詞と同時に、窓硝子がぱたぱたと鳴った。
「───雨だ。…帰る」
「丁度良い」
 ひやりとした自分の肌が、熱を帯びて乾いていく。
 ばらばらと鳴りだす硝子に、庵田と俺はちらりと目をやった。粒が大きい。
「佐野」
 何だ、と答える声が震えた。庵田が下腹の所で囁くような低い声を出したからだ。
 大きなカンバスには、金と蒼が入り交じる景色が描かれている。庵田は無言で熱い身体を寄せた。
 ざわりと皮膚の内側に、熱と水が生まれた気がして目を閉じる。
 大粒の雨───あるいはみぞれ。
 まだ硝子は震えている。






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あきゅろす。
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