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アッラ・"ボレロ"



 その音を初めて身の内側に入れた日の事を、覚えている。
 単純な旋律を入れ替わり立ち替わり奏で続ける、オーケストラという楽器。
 いつ終わるとも知れない大円舞が徐々に近付いて来て、感情と情景と外界の音を飲み込んでゆく。
 規則正しく、絶える事なく。その音楽は、ほんの一瞬も聴き手の感覚を逃がそうとしない。
 祖父自慢のレコードプレイヤーから、身体一杯に音が入り込む。レコードのジャケットには、厳めしい指揮者の横顔と、まだ読めなかった外国語───

 同じ音がスピーカーから流れていて、少し慌てる。
 この『ボレロ』、しかもカラヤン指揮の音を集中して聴くと、微熱が出るからだ。初めて聴いたその時も、二三日微熱が続いて学校を休むはめになった。
「…先生」
 オーディオに示された演奏時間は五分を過ぎた所。
 机の向こうの椅子に掛けて目を閉じていたのを開く。
「やあ」
「カラヤンですね」
「そう」
 短く答えて、会話を厭うようにまた目を閉じた。
 『ボレロ』
 おそらく、誰もが一度は聴いたことのある曲。ごく単純で正確な旋律を、楽器と音量だけで約十五分間。
 ラヴェルはどんな顔でこれを書いたのだろうとふと思う。
 徐々に───曲全体に大きなクレッシェンドがつけられているような。そんなふうに、じわじわとオーケストラは大きくなる。
 音量をいつもより上げているようで、いつもは聞こえる外からの音も今は聞こえない。
 ───それは、抑え切れない想いのようだ。
 あのクライマックスは、動物的な、人間のセックスにも似ているかもしれない。
 曲は十分を数えた。
 ぼうっ、と首筋に熱がわだかまるような気がする。指先は、冷たいのに熱い。
 足音は、歌い出したバイオリンにかき消された。
 息を殺して、ゆっくりと、顔を近付ける。
 音の洪水に、すべては呑まれた。









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