アンダンテ
バイオリンが春を奏でている。時折つっかえながら、それは凍った冬景色にゆるやかに流れていた。
いつもの部屋の前で、俺はもう五分ほど立ち尽くしている。ノックをしても返事がないからだ。
火曜日のこの昼下がりの時間は、この部屋で譜読みをするのがいつもの習慣で、先生の講義がないのも知っている。
次のノックに返事が無いなら諦めよう、と上げた手が古めかしいドアノブに触れた。ラの音で軋みながら扉が開く。
「……先生」
ドアの間からそっと身体を滑り込ませて、古い蒸気ストーブが暖める部屋に入った。
古めかしい木の机は整然と片付けられている。並べられた本の上に無造作に、書きかけの楽譜が乗っていた。
それはもうあらかた完成されていて、最後の数小節を閉じるだけに見えた。フルートとチェロと、ピアノの曲だろうと中りを付ける。
それにしても鍵も掛けずにどこへ行ったのだろうと部屋を見渡して、俺は一瞬体を強張らせた。
壁を支配する本棚に向き合うソファの陰から、革靴の足が見えたのだ。そしてそれは微動だにしない。
先生、と思わず呟く。
ソファの背に手を掛けて見た先、組んだ手が置かれた腹が呼吸に合わせて上下しているのが分かって、詰めていた息を吐いた。
額にかかる髪を、そっと指先で払う。
薄い瞼。すっとした鼻筋。
駄目だ、と思いながら手をのばす。
歳月が染み込んだ頬。
きっと、俺以外の誰かに触れた───くちびる。
幸福な夢を見た気がして目を覚ました。
持ち込んだオーディオからごく静かに室内楽が流れている。伸びをして起き上がり、初めて彼がいた事に気付いた。
短い金髪に黒のハイネック。耳にはピアスが並んでいて、とても音楽家には見えないが真剣に譜を読む横顔で、彼が音楽の徒だとわかる。
「……各務くん」
遠慮がちに声を掛けると、彼は顔を上げて、おはようございます、と少し笑った。
スピーカーから、やわらかなフルートが春を奏でていた。
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