じれったいのよ。
黒岩が、ゆっくりと唇を開いて、ひどく優しい声を出した。
「雨池さん、どうして、いやがるの」
他人を支配しようとする声だ。じわじわと締め付けて、牙を食い込ませる蛇のような。
雨池は震えそうになる声を、ぐっと抑える。
「お前、おかしいよ」
「どうして」
間髪入れずに答える。自分に間違った所などあるはずがない、と黒岩は、たった四文字を発した声だけで表した。遮光カーテンの隙間から零れる陽の光に、折角の土曜日が半分は過ぎてしまったのだと、雨池は薄く思う。
「俺は…、女じゃ、ない」
視線が喉に食い込むような気がして、雨池は壁際に後ずさりながら、いくつもボタンが外されているシャツの襟をかき合わせる。目覚める瞬間に歯を立てられた首筋が熱い。
「俺は女じゃない。こんなこと、」
雨池は繰り返した。
黒岩は、優しい微笑みを浮かべる。
「女に興味はありません」
ぐら、と頭が揺れるような気分に、雨池は襲われた。
「あなただから、『こんなこと』するんです」
絶句する。
「ねえ、雨池さん、俺は手に入れる手段はなんだっていいと思ってる。手に入れる為なら、なんだってする。
───嫌われても。
それでも俺は手に入れたいんだ。 雨池さんを」
呑み込もうとする。食い尽くそうとする。
冷たく、けれど焼けるような熱を持った視線。
毛を逆立てて威嚇する猫に触れるようにそろそろと伸ばされた手を、雨池は力任せに払いのけた。
視線がぶつかる。ごく普通のはずの黒い瞳は、奥に冷たい光を浮かべて、獲物を狙う獣のように鋭い。
「───あなたが欲しいだけなんだ」
その声は、まるで毒のように甘い。支配されてしまいそうになる。
「雨池さん…」
じりじりと壁際に追いつめられた雨池に、黒岩が再度手を伸ばす。
きつく拒む手を、黒岩は掴んだ。
「…っ」
怯えを半分と、怒りを半分。そんな視線で雨池は真っ直ぐに黒岩を睨む。
その視線を受け止めながら、黒岩はそうっと距離を詰めた。いやだ、と雨池が押し殺した声をやっとの事で吐き出す。
その声を、黒岩の唇が吸い取った。
固く結ばれた雨池の薄い唇を、濡れた舌先がゆっくりなぞる。顔を背けようとしたが、大きな手で顎を掴まれて、それすら許されない。
ベッドの軋む音が耳を刺す。
「───強情なひとだ」
雨池の耳元で、少し笑っているような声で黒岩が囁いた。
「そんなに怯えなくても、優しくしますよ」
会社や人前では決して出さない、支配者の声で男は笑う。
壁に押し付けられた背中に、ぞっと冷たいものが走る。雨池は、この一年で多少なりとも築き上げていた、黒岩に対する信頼や、友情が、脆く崩れ去る音を聞いた気がした。
コールセンターの補佐をしていた時期には、パソコンの専門的な事や、スタッフの事で何度も助けられた。
事務に回った後も、廊下ですれ違えば立ち止まって短い会話を交わした。
頼んだ仕事は完璧に片付けてくれた。残業していると、差し入れを持ってふらりと現れた。
信頼、していた。
友達のような間柄だと、思っていた。
ぎこちなくても、そっけなくても、黒岩はいつも、雨池に優しかった。
指先が冷える。
絶望にでも、恐怖にでもなく、怒りに。
「───そんなに、俺が好きか」
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