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じれったいのよ。
 

 ふ、と目が覚めた。
 黒岩はリビングのソファでゆっくり起きあがると、軽く頭を振る。
 大きな窓にかかったカーテンをざっと開け、初夏の太陽に目を細めた。六階からの風景は、土曜日の昼間らしくのどかに空気が流れている。
 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを一口飲んでから、黒岩は隣室───ベッドルームのドアをそっと開けた。
 リビングの明るさとは対照的に、遮光カーテンのほんのわずかな隙間から漏れる光だけが、薄暗い部屋に光の筋を作っている。少しだけぼやける視界を目を細める事でカバーして、開けた時と同じように、静かにドアを閉めた。
 フローリングから、薄いラグに進む。それから、壁際のベッドにゆっくり近付く。
 心持ち小さく人の形にふくらんだベッドの端に、そうっと腰掛ける。
「…雨池、さん」
 囁く声で呼ぶ。返事は、当然、ない。
 ネクタイを緩めた喉元を多少反らせて、雨池は静かな寝息をたてている。黒岩はその無防備な寝顔を見つめながら、覆い被さった。
 今、目の前で眠る年上の男を好きになった日の事を、黒岩は思い出せない。
 けれど、それが一年前だろうが、つい昨日だろうが、さしたる問題ではない。
 今、彼を好きで、手に入れたいと思っている。
 それだけが、全てだと、思うのだ。
「雨池さん、───起きないと、」
 そっと囁く声を雨池の耳元に吹きかけて、緩めてあるネクタイをするすると解く。
「キスしますよ…」
 肉付きの薄い耳朶に、触れるだけの口づけを落とす。微かに、アルコールと汗と、香料の匂い。
 雨池が、喉の奥で小さく唸る。黒岩は吸った息を思わずそのまま止めた。
「…雨池さん」
 反応をうかがうように、小さな声で呼び掛ける。いっそ目覚めればいい、とどこか凶暴な感情を抱く。
「…ん……」
 と、掠れた声がその喉の奥からわずかに答えた。黒岩は自分でも知らない内に唇の端をつり上げる。
 二つ三つ、外してあったシャツのボタンを、更に一つ二つ外す。
 少し汗ばんだ肌を、渇いた大きな手が撫でる。くすぐったいのか、雨池はゆるく身をよじって小さく微笑んだ。
 雨池さん、と黒岩は声にならない声で呼ぶ。
 今まで、こんなに欲しいと思った人はいなかった。
 東京から来た彼は、いつも不機嫌そうにしているかと思えば、会社帰りにただぼんやりと夕暮れの空を見上げていたりする。
 語気の強い喋り方や、意志の強そうな目。けれど、ふとした瞬間に見せるのは、郷愁に身を任せる悲しい顔。
 気付けば、目が離せなくなっていた。
 心を奪われるというのを、初めて知った。
 耳の後ろの薄い皮膚を軽く吸う。頬に、唇のすぐ横に、一瞬触れるだけのキスを落としていく。
 優しくしたい、という感情と、壊してしまいたい、という衝動。
「……ん」
 薄い胸を撫でていた指先が、小さな突起をかすめる。
「…だ、れ、だよ……」
 まだ覚醒には至らないのか、ぼんやりした声が言い、ゆるゆると動いた手が黒岩の肩に触れた。まだ半分眠っている雨池の手は、肩から背中を撫でて、わずかに寝乱れた黒岩の髪に触れる。
 指が、手触りのいい髪を絡めるように動く。
 その仕草を止めようとはせずに、無防備に晒された首筋にゆっくり唇を近付けた。
「だれ…」
 雨池が声を出した瞬間だった。
 いくつかの細い筋と薄い皮膚に、きつく、歯が食い込む。
「いっ…!」
 自分に覆い被さっていた誰かを、雨池は全身で跳ね除けた。薄暗い部屋に、ぼんやりとシルエットが浮かび上がる。
「誰だ…!」
 指先まで脈打っているのに、震えるほど冷たい。
 見覚えのない部屋に、雨池が視線をさまよわせた瞬間、低い声。
「───雨池さん」
 聞き覚えのある優しい低音に、雨池は震える声で問いかけた。
「…黒岩…?」
「はい」
 答えた黒岩は、雨池がほっと息を吐いた途端、その、自分と比べれば幾分華奢な肩に手をかけた。一気にベッドに引き倒して、覆い被さる。
「…っ!」
 口を開いたまま、悲鳴も上げられずに雨池は凍り付いた。ぼんやりとした黒い影が、視界を覆う。
 優しいだけのキスが、額に、頬に、何度も繰り返される。逃げようと顔を背けると、反った首筋にゆるく歯を立てられて、雨池は引きつった声を上げた。
「…や、…いやだ! やめろ、…黒岩!」
 悲鳴のような声に、黒岩の動きが止まった。時計の秒針の音に、乱れた呼吸音が重なる。
 ゆるゆると、覆い被さっていた重圧が退いて、雨池は慌てて身を起こすとベッドの上で身を縮めた。無意識に辺りを探った手が、壁に触れる。
 逃げ場はおそらく、無い。
 そう気付いて血の気が引いた顔は、しかし青ざめてはいない。雨池は、喉に張り付いた声をやっとの事で引きずり出した。
「ふざけるな……!」
 激しい怒りに白くなった顔を、黒岩は黙ったまま見つめている。その唇にほんのわずかに笑みが浮かび、穏和なその表情ががらりと変わる。
 相手の身を竦ませるような、鋭く冷たい眼光。優しさの欠片もない、嗜虐的な微笑。
 しかし雨池はその鋭い視線を真っ向から受け、更に睨み返す。



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あきゅろす。
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