じれったいのよ。
滅多に用事がないせいで入り口で立ち往生していると、システム部唯一の女性、木村穂積が、向かいに座った黒岩に声を掛けた。
「黒岩くん、事務の雨池くんよ」
黒岩はパソコン画面から入り口へ視線を向けて、立ち上がる。
「雨池さん。どうかしました?」
「さっき頼まれてた、これ」
「ああ、ありがとうございます」
確かに、と紙とMOを受け取った黒岩のスーツの胸元で、しゃら、と金属音がした。見れば、二センチ四方くらいのアルミプレートのようなものが、社員証や入館証と一緒に揺れている。
「…なんだそれ」
おもわずまじまじと見つめて、雨池は訊いた。よく見ると、浮き彫りで丸っこいウサギが彫られている。
黒岩は、ああ、と微笑んで、ボールチェーンを外し、手の平に乗せた。
「木村さんがはまってるんです。丸ウサギって言って、結構流行ってるみたいですよ」
木村の趣味に付き合わされて、システム部は全員がこのアルミプレートを持っている、と笑う。
「雨池さんも付けますか? 木村さんから貰ってきますよ」
「いや、俺は…」
断りかけた声を遮って、黒岩は木村に
「木村さん、丸ウサギ貰えますか」
と言った。
「いいわよ。どれにする?」
快く答えながら、私物を入れる小さなロッカーを開け、束ねられたそれを取り出す。手の中で、それはしゃらしゃらと涼しげな音を立てた。
「雨池くんは怒りっぽいから、はい、これにしよう」
束の中から俺に渡された薄いプレートには、丸いウサギが目を閉じて寝そべっている。それから、『人生のんびり』の文字。
ウサギがそれでいいのか、と雨池は内心激しく突っ込んだが、
「…ありがとうございます」
余計な事は言わずに受け取った。
「お揃いですね」
黒岩が微笑みながら言う。いい年してお揃いの何が嬉しいのか、理解に苦しむが、黙って微笑み返す。
空調の風が、さわりとうなじを撫でたのを機に、
「それじゃあ」
と、ブースに戻っていた木村に向かって会釈をして、雨池はシステム部を後にした。
それを見送った黒岩がブースに戻ってきた時の笑みを、木村は見逃さない。
「黒岩くん」
何食わぬ顔で木村の声に顔を上げ、銀のフレームを軽く押し上げる。
「なんですか?」
低めの穏やかな声が答えた。木村はその声と優しい色をした目の奥に、企みを見付けて、片頬だけで笑う。
「黒岩くんがそうだって知ってるのは、あたしくらいよね」
「さて。何の話だか」
うふふ、と木村は更に楽しそうに笑い、
「生意気そうで可愛いわよね」
ごく普通に言った。
「それに、鈍そう」
木村は期待に満ち満ちた目で黒岩の回答を待っている。
「───ええ」
しばらく間を置いて、黒岩が静かに口を開いた。形の良いやや薄めの唇に、誰にでも見せるわけではない、獰猛な笑みを浮かべる。
「大人しく飼われなさそうなところが、いいんですよ」
黒岩と木村は暫し見つめあい、
「黒岩くんのすけべ」
「それはどうも」
揃って微笑む。
それから何事もなかったようにそれぞれの仕事に戻ったが、黒岩がふと手を止めて顔を上げた。
「木村さん、そういえば誕生会なんですが」
呼び掛けられた木村も、書類の文字を追っていた視線を黒岩に向ける。
「口実に使わせて貰っていいですか?」
木村はぱちぱちと何度かまばたきをした。それから、楽しそうな笑みを浮かべる。
「いいわよ」
「ありがとうございます」
「黒岩くんのそういうとこ、好きだわ。自分のためなら味方も利用するようなところ」
「よく言われます」
感情の読めない薄い笑みを返してきた黒岩の向かいで、木村はしばらく、くすくすと楽しそうに笑っていた。
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