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じれったいのよ。

 北国に、短い夏の始まり───六月が来ようとしている。
 四月から続いていた、春とは思えない寒さも随分和らいだ。
 札幌は、無機質と、手つかずの自然が混ざり合う不思議な街だ。
 中央部は綺麗な碁盤の目に整備され、オフィスビルや商業ビルが整然と建ち並ぶが、少し郊外に向かうと、縦横斜めにわかりづらい道が網目を拡げ、緑も一気に増加する。
 成長を続ける札幌駅周辺は、ほんの数日の間に姿を変えている。おかしな街だ、と雨池修司はいつも思う。
「地下街なんて迷路だもんね」
 会社の、地元出身の女性陣ですらそう笑う。
「いつも決まった道しか通らないから、ちょっと外れると迷子になっちゃう」
「雨池さんは、もう慣れました?」
「いや、全然」
 ビルを目印にしても、取り壊されていたり、外壁の改修工事でシートがかけられていたりして頼りにならない。店の看板を目印にするのは一番危険だ。ある日突然潰れていたりする。
 地下鉄から出ると北も南もわからなくなる。
「あたしも、進学でこっち来た時はどうしようかと思いましたよ。地下鉄はどっちに乗ったらいいかわからないし、地上に出ても右も左もわからないし」
 案内板が少ないだとか、そもそも札幌駅はつくりがおかしい、などと話が佳境に入ったのを見計らったかの様に、その男が現れた。
「盛り上がってるね」
 甘い声に女性達がはっと口を噤む。
「データの打ち出しを頼みたいんだけど、いいかな」
 俳優の様な男だ。しかも、トレンディドラマなんかには絶対出ない、映画向きの。
 見るからに仕立てのいいスーツに身を包み、静かな優しい声で喋る。それだけでもポイントは高いのに、背も高く、知性溢れる端整な顔で、細い銀縁フレームの眼鏡が嫌味なほど似合う。今時珍しいような黒髪は多少伸び気味だが、それすらその男を品良く見せるのに一役買っている。
 雨池は、事務補助の新人がMOを受け取るのを眺めつつ、そいつに向かって顔をしかめて見せた。
「雨池さん、なんて顔してるんです」
 年は一つ下。海外に留学経験があり、英語はネイティブ。実家は裕福で、一人暮らし。妹が一人。朝食はご飯派───なんて、どうでもいいような情報まで入ってくるほど、皆から好かれている男。
「変な顔になりますよ」
 韓国の、微笑みの貴公子さえ裸足で逃げ出しそうな笑顔。
 黒岩尚吾。東京本社からの異動ラブコールを、気管支が弱い、という理由で断り続けている男。
「もともと変な顔だからいいんだよ」
 きつい語尾で返すと、
「じゃあもっと変になりますよ」
 つらっとした顔で言われて、言葉に詰まる。周囲からくすくす笑い声。
 黒岩は、雨池が札幌に来た当時から、顔を見るたびこうして小ネタを振っていく。決して愛想が良い方ではない雨池は、それによって自分を取り巻く雰囲気が優しくなっていくのを感じてはいたが、からかわれているのに変わりはないので、何かと突っかかってしまう。
 年下相手に、しかも助けられているのに大人げない、とは思うが、黒岩は雨池の諸々のコンプレックスを刺激するのだ。
 ふふ、と小さく笑う。
「出来たら持ってきて貰えるかな」
「あ、はい。わかりましたぁ」
 事務部を出て行く黒岩の背に向かって、語尾にハートマークを散らしながら答える新人に、ベテラン事務の安達がすすす、と近寄る。
「黒岩さんはダメよ、工藤ちゃん」
「わ。びっくりした。…駄目なんですか?」
 高速プリンターから次々と吐き出されるデータ表を整えながら、工藤は聞き返す。
 雨池は、営業から回ってきた書類をパソコンで整理しながら、新人とベテランの会話を聞くともなしに聞いていた。
「そ。駄目なのよ」
「どうしてですか?」
「黒岩さんはね…」
 安達がぐっと工藤に顔を寄せる。
「黒岩さんは?」
 工藤も真剣な顔で声をひそめた。
「……共有財産だからよ」
「…は?」
 工藤が間抜けた声で聞き返した。雨池も思わず手を止めて、なんだそりゃ、と訊きそうになる。一年経つが、それは初耳だ。
「共有財産?」
「そうよ。黒岩さんは誰か一人のものにするにはいい男すぎるじゃない」
 だから、みんなのものなの。
 美女は世の宝だというのが、大学の友人の持論だったな、と雨池はぼんやり思い出した。安達に友人の姿が重なり、思わず苦笑する。
 プリンターが止まると、工藤は紙束を抱えて
「システム部に行って来まーす」
 と、事務部を出て行こうとした。そこへ、衝立で仕切られているだけの営業部から、業績トップの高崎が現れて彼女を引き留めた。
「あ、工藤さん、この試算お願いできる?」
 その手には、いささか膨張気味の茶封筒が二つ。
「大至急で。ね。お願い」
 困惑する新人を拝み、高崎はじりじりと営業のスペースへ後退する。雨池はパソコンにロックをかけて、立ち上がった。
「工藤さん、データは俺が持っていくから。アホの高崎の方、やってあげて」
「…はぁい」
 雨池は渋々、といった様子の彼女の手から紙束を受け取り、高崎を一睨みする。
「アホって、雨池…ごめんね、工藤さん。お願いします」
「アホだ、お前は。毎回毎回、急な仕事ばっかり回しやがって」
「悪かったって」
 いまいち誠意の見えない男だが、仕事は真面目だから認めざるを得ない。やれやれとばかりに溜息を吐いて、踵を返す。
 システム部へ行くにはコールセンターの横を通る。丁度休憩時間なのか、派遣やアルバイトのテレオペがわらわらと廊下に溢れている。
 その人波を掻き分けて、やや冷たい空気の漂うシステム部に辿り着く。熱に弱い機械類が多いため、他の場所より空調がきつめなのだ。
 システム部では、情報漏洩等を防ぐために立ち入りが制限されている。



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あきゅろす。
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