孤月
今日は、満月だった。
墨色の空に、白金色の月が薄く金属を叩いて引き延ばしたように、張り付いていた。
まるで薄っぺらな金貨(コイン)。本当にあんなものが珠の形をして宇宙(そら)に浮いているのかと思うと、妙な気分だ。尤も、自分の住んでいる場所が地球という星だという実感もイマイチ無いので、仕方ないのかも知れない。
そうやって縁側に座ってぼーっと月を仰いでいたら、背後に誰かが立った。振り向かなくても分かる。この家には、自分とこの相手の二人しかいないのだから。
「……十五夜、か」
気配が呟いた。低くしっとりとした響きだった。視界の端では、ゆるりと煙が天に昇っていた。わずかに遅れて匂いが届く。いつもの、妙にスッとする香りだった。自分の良く知る人々が吸う煙草と同じ種類で、但し、背後の人物が吸っているのは、煙草ではなく煙管だ。
そのまま視線を月に向けていたら、衣擦れの音がして、横に、青鈍色の和服姿が座った。
ちらりと見れば、硬質の短い黒髪に縁取られた横顔が、自分と同じように月を仰いでいた。照らされて白く、美貌が夜に浮き上がる。
思わず眺めてしまうと、不意に自分より高い位置にある瞳がこちらに視線を戻して、細められた。
笑ったのだ。
「……そう言えばさ、お前」
薄笑いを浮かべたまま視線を外すと、そいつはたった今思いついたような調子で尋ねた。
「いつまで此処にいるの?」
静かな問いに、俺は答えなかった。
虫の音ばかりが響く中、互いに逸らされた視線のまま、隣では形の良い唇が煙管を咥え白煙を燻らせる。
「あんまり長く居ると……還れなくなるぜ?」
飽いたように体勢を崩して頬杖を突きながら、ぽつりと落とされた呟き。その眼差しは、遠くを向いていた。吐き出した白煙の消えていく、ずっと先を。
だから俺も、遠くの月を見つめながら、呟き返す。
「……そんな事、分かってる」
「ふぅん。……なら、別に構わないけど」
長い沈黙の後の、真意の見えない相槌。俺は、掠れた声で大丈夫と答えていた。
「ああ。――大丈夫だ」
心の底から息を吐いていた。
冷たい風が吹き抜けて、膝を抱えた。それでも、体の底から冷えていった。
自分の言葉は、まるで言い聞かせるように響いてしまった。相手は他でもない、自分へ、だ。此処から、段々と離れられなくなっていく、自分自身へと向けて。
燐光を放ちながら、黒い空を滑るように傾いていく月。傾いていくように見える満月。
しかしアレは、現実には動いていない。本当に動いて、傾いているのは地球(じぶん)なのだ。ただ、そう見えるだけで。そう見えるから気付かないだけで、真実は。
思考に深く沈みゆく俺の隣で、再び男が煙管を呑んだ。右手の指で挟んだ煙管を、口元に遣っては、放す。煙を溜めて、深くゆっくりと零す。それは、霞みながら揺蕩いながら、細く、細く散らばって、最後は闇に溶けていった。
確実に深まる夜。
荒れた庭の草木を揺らしながら風が吹き抜けていく。
崩れた塀から覗く竹林は、月夜でも尚、その内に濃厚な闇を湛えている。笹の葉がさやざやと囁き交わして、やがて鎮まった。
見上げれば。
天に輝く月が、ゆっくりと堕ちていた。
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