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夏色小景

 気だるい夏の午後。

全開にした窓からは、少しも風など入ってこない。入ってくるのは夏の日差しと、軒下からぶら下げてある簾の隙間を縫って捻じ込まれる、耳鳴りのような蝉の声。

 私は畳の上に、大の字になって寝転んでいた。手に団扇を持っていたが腕がだるくて、数分前から唯の邪魔な物体だ。扇風機が代わりに生暖かい空気を、縁側に置かれた蚊取り線香の匂いも巻き込んでかき回す。ごろん、と寝返りを打つと、暖められた畳の匂いが微かにした。

 家の中では人工的に起こした風が、私の頬を掠っていく。けれど外は、溜息ほどの風もない。寝転んで見た簾の向こうには、夏の強烈な日差しを受けて鮮やかに静止する庭があった。かんかんと照りつける太陽は色濃くなった緑を突き刺し、地面は乾いて、光を白々と跳ね返した。電線に圧し掛かるように立つ入道雲が高い。そしてやっぱり、蝉の声が五月蝿い。

 不意に耳元で、汗をかいたグラスの中の氷が小さく、キィ、と鳴いた。中身の麦茶は当に飲み干した。それを用意してくれた祖母は、三十分ほど前に買い物に出かけたが、この気温では、きっと道路には陽炎が立ち、照り返しが肌を焼くだろう。祖母が干上らなければいいが。

 私は、一つため息をついて、再び団扇で扇ぎ出した。


* * * * *


 強い風が舞い込んで、風鈴を乱暴に揺らした。

 私がはっと眼を覚ますと、いつの間にか外が暗くなっていた。蝉ではない音が、空気中に満ち、湿った土と水の匂いが、吹き込む風に混ざっている。
雨だ。それも土砂降りの。

 私は家中の窓を閉めるため、急いだ。次の瞬間、窓の外で閃光が走る。雷も鳴っているのだ。いつから降り出したのか、縁側が全て吹き込んだ雨で濡れていた。窓から顔を出せば大粒の雨が叩きつけられる。


 最後の、祖母の寝室の窓を閉め終わった時、どこか近くで雷が落ちた。お腹に来る振動よりも、轟音で耳が痛い。祖母はまだ帰宅していなかった。やや不安になりながら外を見れば、空を覆う黒々とした夕立雲は、足早に通り過ぎていた。西の空が、明るい。この分なら直に止むはずだ。
 ぺたぺたと濡れた縁側を歩いて居間に戻ると、いつの間に入ったのか、一匹のアオスジアゲハが置きっ放しのグラスの縁で羽を休めていた。よくよく見れば、長い口を伸ばして側面に浮かんだ水滴を飲んでいた。


 捕まえようかそのままにしようか、躊躇った。その両羽をゆっくりと動かしながら、渇いた喉を潤している美しい黒い蝶に、なぜか近寄りがたかった。時折見える青い一筋の線が、思いのほか美しかったからかもしれない。


 迷っている内に、蝶は徐に羽を広げ飛び立ち、そのままふらふらと、部屋の中を彷徨い始めた。出口を探している、と言う風でもなく、ただ気だるげに羽を震わせて、ゆらりと天井近くを飛ぶ。私はわざわざ捕まえるのも面倒になって、そのうち自分で出ていくだろうと、一つだけ窓を開ける。見れば外はもう随分、小雨になっていた。少しだけ涼しく、湿気た風が吹く。

 ふと視線をうつした先に、壁をつたうようにして咲くヒルガオの白い花があった。先日まではまだ地面を這っていたのに、もう、私の肩のあたりまで伸びている。それはこの大雨の恩恵か、それとも私が前々から成長していたのに気付かなかっただけか。当の本人は素知らぬ顔で天に手を伸ばす。


静かに雨が、細く、庭に出来た大きな水たまりで弾けていた。するりと雨音が消えていく中、そこにはうっすらと青空が映り込んでいた。見上げれば雲が割れ、墨色を裂く様に現れた澄んだ水青に思わず見惚れる。

 そんな私の脇をすり抜けて、黒い影がまだうっすら曇る外へ出た。あのアオスジアゲハだった。ついと、瑞々しく色づいたタチアオイの紅い花に向かって飛んでいく。その羽根の碧色の紋様が、斑な青色の天に閃く。


 私はそれから暫く縁側に突っ立って、外を眺めていたが、背後から聞こえた戸を引き開けるガラガラという音で我に返った。同時にただいま、という声もする。祖母だ。窓をそのままに小走りで、私は玄関に向かった。




いつの間にか、どこか遠くから蝉の声が再び響き出していた。




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あきゅろす。
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