[携帯モード] [URL送信]

小説
第三話
その青年は、正しく美丈夫だった。

流れるような瑠璃色の長い髪。
同じ人間だとは到底思えない。
染めているにしても、余りに自然な発色具合だ。

目の色だってそうだ。
青を少し濁したような色は、深い海の底を連想させる。
一度捕えられてしまっては逃げ出せない、深遠の静かな底だ。

肌も透き通るように白い。
整った全てのパーツを乗せるに相応しい。
何を取っても、女である節子以上に綺麗なものばかりで形作られている。

「どうしたんだい、そんなに呆けてしまって」

欄干から腰を上げた青年は、ゆったりした足取りで節子の傍まで歩いて来た。
開いていた扇をぱちんと閉じ、その切っ先を節子の首筋に当てる。
ひやりとした感触が全身に走った。

「もしや、私の事を忘れてしまったのか?」

青年は整った柳眉を寄せた。
美しい顔が、切なげに歪められる。

節子は、ぶんぶんと首を横に振った。
忘れる訳など無い。
彼は、夢の中に毎夜出て来たその男そのものなのだ。

今も夢を見ている最中なのかもしれないが、それでも忘れる訳がなかった。
余りに毎晩見るものだから、その展開もつぶさに覚えている。

ただ、彼の声を聞いたのだけは、今回が初めてだった。

「では、私の名前は?」
「蛇神」

先程教えられた名前をそのまま唱和する。
青年は笑った。

「そう、セツは物覚えのいい子だね。
流石、私の見込んだだけのある娘」

青年は機嫌が良いようだった。
つい数秒前に教えられた名前を忘れる訳も無いだろうに、節子がその名を呼んだだけで十分満足しているようだった。

けれど、不意に彼は節子の後方へと視線を遣った。
その瞬間、優しく和らげられていた目がつんと吊り上がった。

「いつまで隠れている。
さっさと出て来い」

青年が吐き捨てるように言えば、節子の背後で「ひっ」と悲鳴が上がった。
青年の物言いが余りに冷たかったので、節子自身もどきりと身体を強張らせた程だ。

声が聞こえた方を、恐る恐る向いてみる。
青年の口振りからして、背後には何かが居るようだった。

振り向いた先、そこには小さな蛙が二匹転がっていた。
青と茶色という、物珍しい身体の色だ。
その上、双方とも何かに怯えているようである。

「蛇神様、ちゃんとわしらは連れて来ましたで」
「そうじゃ、ちゃんと連れて来ましたで」

蛙二匹が口を開いて喋りだした。
驚きの余り、今度は節子が悲鳴を上げた。

「セツを驚かすんじゃない、青蛙、茶蛙」

節子の怯え様を見た青年は、ぴしゃりと吐き捨てた。
その声に、また蛙達は縮み上がる。
どうやらこの蛇神と呼ばれる青年と蛙達には、確固たる上下関係が出来ているようである。

不可思議な事ばかりに目を回しそうになりながらも、節子は青年に問うてみた。

「あの、ちょっと聞きたいんですけど」

節子が喋り始めたのをいい事に、小さな蛙二匹は橋から飛び降りてしまった。
とぷん、とぷんという二つの音が鳴る。

蛙達は、そのまま社の方角へと泳いで行ってしまった。
蛇神も、その姿を目で追いつつも、嗜める事をしない。

「聞きたい事とは、何」

蛙から視線を外した蛇神は、節子に向き直った。
いつの間にやら、また扇を開いている。
青年が扇を使い、ゆったりと仰ぐ様は、非常に絵になるようだ。
長い髪が風に乗ってそよぐだけで、節子の胸が奇妙な動き方をする。

己の胸の不自然な高鳴りを隠すように、節子は言葉を続けた。

「此処は、何処でしょうか」

聞きたい事は沢山あったが、何故か最初に出て来たのはそれだった。
夢の中だという事は分かっている。
分かっているのに、聞いてしまった。

「また突然何を聞かれるかと思ったら」

青年は楽しそうに笑った。
そしてすっと目を細める。

「此処は、私の社だよ」
「社?」
「住まいだと言った方が分かり易いかな。
私は蛇神。
その名の通り、蛇の姿をした神だ」

節子には到底予測出来なかった言葉など吐いて、彼は「先程の蛙は下遣いのようなものだ」と付け足した。

節子は、ぽかんと口を開けた。
開いた口が塞がらないとは、正にこの事である。
呆れている訳ではないが、驚きを通り越してどのように反応していいのかも分からなかった。

確かに、彼が神なのであれば、その美しさも納得出来る。
この豪勢な社も分からないでもない。
だが、大して霊感も無い節子が神々しい神に会うだなんて、そのような馬鹿げた話があってもいいものだろうか。

まるで人形のように動かない節子に、青年はおかしげに声を上げ始めた。

「その様子では、やはり覚えていないと見える」
「え?」
「私の事をだよ。
まあ、大方そのような気もしていたけどね」

立ち尽くしている節子の腕を引っ張り、青年は歩き始めた。

「私とセツは、今から十年前に会っている」
「十年前?」
「そなたは未だ幼かった。
けれど、その美しき心は変わっていないようだ」

青年は、社を支えている甲板の上をひたすら歩いた。
何処に連れられるのか分からぬまま、節子も付いて行く。

「十年前、そなたはこの町に引っ越して来た。
もう忘れてしまったかい?
家を建てる際、柏木家は地鎮祭をしただろう。
その時、私はたまたま近くを通り掛った。
勿論、蛇の姿でね」

到底信じられる話では無いが、この青年は自身が蛇だと言う。

「恐らく、大工の棟梁か何かだろう。
その者が、私を箒で追っ払った。
特段何をするでもなく、傍を通っただけだというのに。
見ていた神主も、止めようとしなかった。
腹立たしい事だ」

ひたすら歩いていた青年が、ぴたりと立ち止まり、手を解いてくれた。
殿舎の丁度横壁にあたる所だった。

一見、神社のように見えた殿舎だが、よく見ると立派な寝殿のようである。
先程、青年自身が「住まい」と言っていたのも、あながち嘘ではないようだ。

しかし、こんなにも広くて大きな舘に住まうというのは、些か富豪過ぎるようだ。
夢の中だから有り得るのかもしれないが、これが現実世界だとしたら、何千何億と掛かる代物だろう。

社の周りは見渡す限り透き通るように美しい海が広がるばかりで、他には何も見えない。
海と同じように青い空にも、雲一つ無い。

それにしても、己にはこのような不可思議な夢を見る嗜好があったのだろうか。

節子は、ふと考えた。
毎晩毎晩見ていた、この青年の夢。
夢は潜在意識を表すという。
それならば、節子はこの青年に何か思い入れがあるのだろうか。
或いは、願望と妄想が入り混じっているのだろうか。

高校に入ってから、過度に続いていた勉強尽くしの日々。
その毎日に疲れている証拠なのだろうか。
節子は理性的に自身の夢分析をしてみたが、その答えは上手く出せそうもない。

気が付けば、己の話を聞いてくれていないと気が付いたらしい青年が、僅かに眉根を寄せていた。

「聞いているのかい、セツ」
「あ、御免なさい。
ぼうっとしちゃって」
「ぼうっとするのは後でいい。
いいかい、私とそなたの出会いはね」

その後、青年は二人の出会いなどを話してくれた。

彼曰く、柏木家を建てる際にお世話になっていた棟梁が、たまたま通り掛った蛇神を箒で追い立てたらしいのだ。
それに激怒した蛇神は、棟梁に噛み付いてやろうと思った。
その時、それを察して蛇を止めたのが、節子だと言う。

幼かった節子は、素手で蛇を掴んだそうだ。
大人達は、皆一様に叫んだ。
危ないから早く放りなさいだとか、噛まれたらどうするだとか、毒を持っているかもしれないとか。

しかし、節子は蛇を鷲掴みにしたまま、歩いて行った。
そして、脇にあった草むらに、そっと放してやったそうだ。

相手が幼かった事もあるので、蛇神は蛇の姿のまま、節子に語り掛けた。
若干六歳程の節子は、蛇が喋った事に驚かなかった。
それどころか、にこにこして返したという。

その時に、蛇神と節子は約束を交わした。
その約束とやらは、十年後の決行だった。

二人が初めて会ってからほぼ十年経った今日、その約束を果たそうと蛇神は言う。
けれど、節子はそのような約束など全く覚えていなかった。
そもそも、これが夢なのであれば、その約束すらも本当は存在しない筈だ。

「どんな約束をしていましたっけ?」

きょとんと小首を傾げ、節子は聞いた。
やはり忘れてしまったんだね、でもそんな事は関係ないよ、などと言い、蛇神は返す。

「そなたを巫(かんなぎ)として迎え入れる」
「かんなぎ?」
「そなたのように美しい心を持った者が傍に居てくれると、私も安らぐからね。
その代わり、そなたには永久の命を与える事を約束した。
そなたはもう他の人間のように老い苦しむ事も無く、若い身体のまま、私と永遠に過ごすんだよ」

節子は益々首を傾けた。
まるでお伽話のような展開ではないか。

この不思議な夢から覚める為、節子は、ばちん、ばちんと頬を叩いてみた。
思い切り叩いたので、非常に痛かった。
しかし、目の前の青年は消えてくれない。

今度は、腕を抓ってみた。
同じく根限り抓ったので、真っ赤になってじんじん痛んだ。
それでも、殿舎は消えていない。

最後に、目を瞬いてみた。
何度も何度も瞬いた。
それなのに、拡がる青い海は依然として拡がっている。

節子の奇妙な行動がおかしかったのか、蛇神はくすくすと笑い出した。
扇を口元に当て、隠すように笑うので、非常に上品だった。
やはり、女である節子より数倍も高雅なきらいがある。

果ての無い夢に、節子は頭を抱えそうになった。
その時、社の方からぴょこぴょこと蛙が飛び出して来た。
黄色の皮膚をした蛙だった。





TO BE CONTINUED.

2009.01.15

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!