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小説
第二話
「お疲れ、節ちゃん」

チャイムが完全に鳴り終わってから、美鈴は節子の傍までやって来た。
美鈴は、節子の同級生である。
小学校、中学校と同じ所に通い、今も徳祥高に通っている。
節子と美鈴。
高校のクラスこそ違えど、長く培ってきた友情関係は尚も続いている。

美鈴の左右対称に括っている髪が、元気に跳ねていた。
子犬のような目もくるくるしている。

節子は、大仰に息を吐いた。

「もう最悪だよ」
「どうしたの?」
「生理、始まっちゃって」
「嘘。
もしかしてさっき途中で部屋を出たの、トイレ行ってたの?」
「そう、それで分かっちゃった訳」
「携帯でも鳴ったのかと思ってた」

先程の授業は、数学だった。
すでに学校は終え、此処は進学塾の集合コースの教室だ。

授業中、下肢に違和感を覚えた節子は、こっそりと部屋を抜け出し、トイレへと向かった。
進学塾では、部屋を出る際に一々講師の許可など要らない。
寧ろ、わざわざ許可など取ろうものなら、一時授業を中断させた事を他の生徒に恨まれてしまう。

だから、節子もひっそりとトイレに行った。
美鈴は、それを見ていたのだろう。

洋式便座に座り、下着を下ろした節子は、うんざりした。
下着の丁度股座の辺りにべったりと付いている、赤黒い血液。
予定では、もう五日程後だった筈だ。
その為、生理用品の予備も持って来ていない。

仕方が無いので、トイレットペーパーを直接下着に巻き付ける事にした。
お手製簡易ナプキンだ。
残る時間はこれで乗り切るしかない。
受付に行けば、女性スタッフが生理用品の一つや二つ貸し出してくれるかもしれないが、それも恥ずかしくて嫌だった。

つまり、今現在の節子の股座は、しっとりと染み出した経血と、ごわごわしたトイレットペーパーがぐちゃぐちゃになって、非常に不快な状態にあるのだ。
先程の大袈裟な溜息の訳は、ここにある。

節子は顔を上げて、美鈴に問うた。

「ねえ、ナプキン持ってない?」
「え、持ってないよ。
私、この間終わったばっかだし」
「そっかー、予備なんて持ってないよねえ」
「まあ、面倒臭いからねえ」

こうなっては家に帰るまで我慢しなければならないかと、節子は重い腰を持ち上げた。
椅子に血が漏れている風も無い。
お気に入りの制服が汚れている風も無い。
しかし、臨時で巻いたトイレットペーパーだけでは、時間の問題だろう。

教室内の生徒は、もうほとんど帰ってしまっていた。
美鈴もとうに帰る支度を終えているようで、手には大きな徳祥高校の鞄を持っている。

塾を出、美鈴とも逸れてから、節子はしずしずと歩いた。
さっさと家に帰って下着を取り替えたいのも山々だが、大股で歩いた瞬間にどろりと血が漏れ出てきそうで嫌だった。

塾から家までは徒歩十五分程だ。
塾の間中我慢出来たのだから、今更堪えられない時間でもない。
制服が汚れさえしなければ大丈夫だ。

住宅街をひたすら歩いていると、自宅の屋根が微かに見えるようになってきた。
我が家までもう一踏ん張りだ。

街灯や民家の明かりが多々あるお陰で、道も然程暗くない。
犬を散歩させている老人や、ゴミを出している中年女性がちらほら見える。
不審者の影も、勿論無い。

しかし近頃、ここ一帯では良からぬ噂が流れている。
どうやら「神隠し」と呼ばれるものがあるというのだ。
しかも、若い娘ばかりが狙われているという。

神隠しに遭った少女達は、未だ発見されていない。
最初に居なくなったのは、隣町の女子中学生らしい。
次は、そのまた隣町のフリーターの子。
その次は、この近辺に住んでいた相澤伊織。

伊織は、節子より一つ年上の女の子だった。
だが、節子は伊織が神隠しで消えたとは思っていなかった。

隣町の子達の事は知らないが、伊織の事だけは節子もよく知っている。
伊織は、日頃から非常に素行の悪い娘だったのである。

髪を金髪にし、ピアスをじゃらじゃら空け、常にばっちりの化粧をした高校生。
ちょっとでも目が合えば、「何見てるんだよ」と文句を言うような娘。
それが伊織だ。

そのような思春期真っ盛りな女が一人居なくなったところで、「神隠し」だとは甚だ疑わしい。
現に、伊織は頻繁に家出をするきらいがあった。
だから今回も、単なる家出なのではないか。
節子だけでなく、伊織を知っている者は、大抵がそう思っていた。

家まで到着した節子は、門扉に手を掛けた。
その時、横からにゅっと手が伸びて来た。
小さな手だ。

びくりとした節子は、勢いよくそちらの方を向いた。
先程まで神隠しの事を思い出していた分、下手な胸騒ぎがした。

そこには、今朝会ったばかりの少年が居た。
相変わらず青い野球帽を目深に被っている。
顔は見えない。

「何?」

節子の声は震えていた。
たとえ相手が小さな子だと分かっていても、良からぬ恐怖が先走った。

「ずっと待っとったのに、来んとは何事じゃ」

少年は何処か不機嫌だった。

その言葉に、節子も眉根を寄せた。
いわれない抗議をされた事もさる事ながら、こんなにも小さな子が夜遅くまで己を待っていたという事に不信感を持った。
時計の針は十を過ぎている。

おかしい。
この子の両親は、一体何をしているのだろうか。

「待ってたって、今まで?
ずっと?」
「約束したんじゃから、当然じゃろう。
それなのに、こんなにも待たせおって」

少年は、ぐいぐいと節子を引っ張り始めた。
小さな身体に似合わぬ、強い力だ。

門扉に伸ばしていた手も、簡単に引き離された。
よたよたと身体を引き摺られながら、節子は反論する。

「こんなにも夜遅くまで待つだなんて、おかしいでしょ。
早く家に帰った方がいいんじゃない?」
「じゃから、これから帰るわい」
「これから?
それなら、手を離してよ」
「阿呆か。
お前さんを連れ帰らんかったら、あの方に何と言われるやら」

ぐい、ぐい、ぐいと、節子はみるみる引っ張られていった。
一瞬、助けを呼ぼうかと思ったが、それも憚られた。

相手はただの小さな子だ。
そんな子に絡まれたからといって、大声など上げてもいいものだろうか。
騒ぎに駆けつけた大人達がこの状況を見れば、「人騒がせな」と言って、逆に節子の方を怒らないだろうか。

迷っている隙に、節子は今朝この少年に会った場所まで連れて来られてしまった。
住宅街をほんの少しだけ避けた所に、小さな雑木林がある。
その入り口に設置されている古びた祠だ。

そこには、茶色の帽子を被った少年が待って居た。

「遅えじゃねえか」
「仕様がねえで。
この娘っ子がなかなか帰って来んで」
「あのお方も怒っとるんじゃねえか」
「黄蛙が食われてねえかな」
「いや、赤蛙の方が危ねえかもしれん。
この前も粗相しとったで」

少年達は、理解不能な事ばかりを言った。
そこで、掴んでいた節子の手もやっと離してくれた。

青と茶の帽子を被った子らは、揃って祠に身体を向けた。
そして、小さな手を大きく左右に開いた。

節子は、これから一体何が起きるのかと、その場で様子を伺う事にした。
矢庭な事ばかりが続いて、逃げ出す事もとんと脳内から消えていた。

少年二人が、広げていた手を大きく動かす。
一度、ぱちんと小気味いい手拍子が打たれた。
数瞬も違わず、全く同じタイミングで叩かれたようだ。

「ただいま帰りました」

今度は口を揃えて言った。
示し合わせたような揃い方だ。

その途端、節子の目の前の祠がぐにゃりと曲がった。
その屈折は、すぐに辺りに拡がった。

視界全てが曲がっていった。
ただ少年達だけが曲がっていない。
節子の身体も、曲がっていない。
この場に居る三人以外だけが、どんどん曲がっていく。

このままでは酔ってしまう。

過度な眩暈のような感覚に、節子は思わずしゃがみ込んだ。
そういえば、月経週間も迎えたばかりだった。
そのせいで、余計に気分が悪いのかもしれない。

座り込んだ節子は、歪みが幾分か増しになってから、手を地に付けて深呼吸した。
だが、その手触りが些かおかしい事に気が付いた。

先程まで居た場所は、ざらざらした土の上だったように記憶している。
しかし、指先に触れたのは、非常にさらさらした、零れるような砂なのだ。

はっとして節子は顔を上げた。
そこには、見渡す限りの湖があった。
いや、海だろうか。
どちらにせよ、視界では捉えきれない程の大きさである。
空も、夜空どころか明るく澄み渡っている。
歪みも完全に消えている。

拡がる水の上には、真っ赤な橋が架かっていた。
橋の先には、白い殿舎がある。
何処かの図鑑でしか見た事のないような、随分と大きな古代社だ。

屋根は庇(ひさし)でどっしりとしていて、壁もきらきらと光っている。
所々の柱は朱塗りだろうか。
社の周りには、橋や柱と同じように赤い欄干で柵まで為されている。

これは、水の上に浮かぶ社だ。

今、目の前に起きている事が信じられなくて、節子は目を擦った。
何度も擦って、擦って、それからもう一度目を開いた。
しかし、状況は何一つ変わっていなかった。
節子の眼前には、到底信じられないような事が起きている。

そういえば、あの少年達は何処へ行ってしまったのだろう。
きょろきょろと辺りを見渡すが、その姿は何処にも無い。
この一瞬の間に消えてしまったというのだろうか。
或いは、節子が夢でも見ているのだろうか。

ふらふらと立ち上がった節子は、誘われるように反橋の方へと歩いていった。
赤く塗られた、大層趣のある架け橋だ。
よく見てみれば、細かい紋様まで刻まれている。
日本古来の花々達が嫌味なく描かれている。

橋に一歩足を踏み出してみた。
その瞬間、どきりと胸が鳴った。
この状況は、何処かで覚えがあった。
何度も何度も、それこそここ最近、ずっとだ。

節子ははっとした。
これは、夢の中の情景と全く同じなのだ。

見ず知らずの青年に呼ばれるまま、橋を渡り、社の方へと向かう。
そのような夢を、幾日も幾日も見ていたではないか。
もしかしたら、これも常の夢の中なのだろうか。
気が付かぬ間に気を失ってしまっただけなのだろうか。

だが、いつも見ている夢とは異なり、橋の先には青年が居ない。
蒼い目をした瑠璃色の青年が居ない。

節子は、恐る恐る橋を渡り始めた。
恐怖なのか、或いは興味なのか分からないが、胸では壊れんばかりの鼓動が打たれていた。

橋を半分も渡れば、何処からともなく花弁が舞い落ちてきた。
ひらり、ひらりと、その数はどんどん増えていく。
白、薄い桃色、ショッキングピンク。
花弁達が、節子にフラワーシャワーを浴びせているようだ。

白く豪勢な舘に落ちてくる花弁は、非常に絵になった。
節子は、ごくりと唾を飲んだ。
高鳴っている鼓動は恐怖や興味ではなく、もはや全く異なる種のものとなっていた。

捕らわれたように足を進める。
橋の先まで来た瞬間、しゃん、と鈴が鳴った。

空から舞い落ちている花々が、欄干の一部に集まり始めた。
そこでぐるぐると渦を巻き、そして一瞬にして弾けた。
また、しゃん、と鈴が鳴る。
そこに、一人の青年が現れた。

その青年は、文官束帯姿をしていた。
中古の時代、天皇が儀式の際に着ていたものだ。

上着となる純白の袍(ほう)には、蛇のような紋様が刺繍されている。
ベルトの銀の石帯(せきたい)を締め、裾の長い縹色(はなだいろ)の下襲(したがさね)。
冠は被っていないが、腰まである瑠璃色の髪を緩く一つに束ね、横に流している様は非常に愁眉だ。
手には、豪奢な扇まで持たれている。

節子を見たその青年は、にこりと笑った。
そして、ゆっくりと口を動かした。

夢の中では、一度足りとも聞く事の叶わなかったその麗しき青年の声。
それが、何故だか今回だけは、しっかりと耳に届いていた。

「ようこそ、セツ。
覚えているかい、私がそなたの蛇神だよ」





TO BE CONTINUED.

2009.01.14

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