[携帯モード] [URL送信]

小説
第二十話
結局、蛇神に厭らしい手付きで触れられる事は無かった。
何事もなくただ湯浴みだけを終えた節子と蛇神は、二人連なって透渡殿を歩いていた。

蛇神はこの出雲に来る際に来ていた直衣を、節子は簡易の浴衣を着ている。
節子の浴衣は、蛇神が用意したものである。
淡い桃色に染められた衣生地と紅色の帯は、節子によく似合っていた。

蛇神と手を繋ぎ、連れて来られたのは、また大きな一室だった。
古来の建物には珍しく、障子の戸が付いている。
その中からは、賑やかな声が漏れ聞こえていた。

「此処は何ですか?」

節子は首を傾げて問うた。
障子に手を掛け、蛇神が振り返る。

「食事を摂る場所だよ。
皆が宴会をしているだろうから、少々煩いかもしれないけどね」
「宴会?」
「私達も端の方で簡単に何かを頂こう。
舞台で芸も見えるだろうし」

障子を開ければ、わっと楽しそうな声が溢れ出た。
蛇神の言うように、確かに其処に居る者達は大宴会を為していた。

しかし、纏りのある宴会では無い。
各々が愉快げに酒を酌み交わし、運ばれてきた膳を摘み、げらげらと笑い転げているのだ。
中には出雲の下働きの女に手を出している者も居た。
神とはいえ、酒が入った席でする事は皆同じようだ。

部屋自体は数十畳ほどの広さだった。
上座には舞台があり、年若い女が舞妓姿で舞を踊っている。
酒で出来上がった神々達は、その娘にやんやと喝采していた。

その中の一人が、開け放たれた障子の方にくるりと振り向いた。
そうかと思えば、すぐに目を見開き、満面の笑みで声を上げた。

「おお、蛇神じゃないか」

その声に吊られ、周りの者も節子達を見た。

「蛇神だと!」
「何、蛇神が来たと」

舞を披露していた娘から視線を外した数名が反応する。
そして、酒を持ったままの手で、蛇神に此方の方へ来いと手招きした。

蛇神は一瞬眉を顰めた。
彼にとって、思いも寄らない待遇だったようだ。

数秒考えてから、蛇神はその群れに軽くお辞儀だけをし、全く別方向の奥へと進んで行った。
そして、用意されていたらしい膳の前に腰掛けた。
節子も慌ててその横へと腰を落ち着けた。

だが、あっという間に二人は神々に囲まれてしまった。
先程、蛇神の登場に湧き立った者達が寄って来たのだ。

「蛇神、前に見せてくれた舞を踊ってくれ」

その内の誰かが蛇神に言った。
能面のような蛇神の眉が、再びぴくりと動く。

「そうだ、あの踊りを見たい」
「我も見たい」

また異なる誰かが言った。

蛇神は舞を踊るのだろうか。
そのような事は聞いた事が無かった。
神々らの口振りでは、彼は以前にそれを見せたようである。

節子はちらと蛇神を見てみた。
柳眉が描く皺は更に濃くなっている。

「この女子は?」

群がっていた神の一人が、節子の方へと意識を移した。
この出雲の中は神だらけだ。
人間が珍しいのだろう。

蛇神はすいと視線を節子に落とした。

「私の巫です」
「そうか、蛇神の巫か。
それならば、蛇神の巫とやら。
御主も蛇神の舞を見たいよのう?」

蛇神の返答に更に絡む者が居た。
巫である節子の方からも、主である蛇神に催促しろと言いたいらしい。
皆、どう足掻いても蛇神の舞とやらを見たいのだろうか。

神々達がそこまで言うのだから、余程彼の舞は素晴らしかったのだろう。
余りに騒ぎたてるものだから、節子まで段々気になってきた。

蛇神の容姿は一際優れている。
中性的な彼が優美に舞う姿は、さぞかし絵になる筈だ。

「蛇神様、舞を踊るんですか?」

節子の方からも水を差し向ければ、周りの一人が代わりに答えた。

「踊る、踊る。
蛇神はその辺りの女よりも美しく踊る。
女の格好をして踊る様は、絶品じゃ」

そんな事を言われてしまっては、益々気になる。
出来るものならば、自分も見てみたい。
しかし、蛇神は女装などをして踊って見せたのだろうか。

節子の内心を読んだのか、蛇神は渋い顔をした。

「あれは、賭けで負けて仕方なく」

蛇神の言い訳など耳に入れる気が無いらしい神々達は、蛇神の言葉も遮って、もう一度、もう一度と熱烈なアンコールを送った。
余りに熱の入った多数の声に、蛇神が断れる雰囲気はどんどん薄れていった。
辺り一体が蛇神の舞を待っている。
節子も多分に漏れず、期待した。

とはいえ、蛇神の事を恋愛対象として見ている故に気になる訳ではないと思う。
近しい人の新たな一面を見たいと思うのは、一女として当たり前の感情だ。
これは、特殊な桃色掛かった情では無い筈だ。

そう己に言い聞かしたが、それでもやはり気になるものは気になった。
他の神が知っていて、節子だけが知らない蛇神の一面があるというのならば、それは是非とも見ておきたかった。

蛇神はじりじりした顔付きで逡巡した。
そうかと思うと、意を決したようにすっくとその場に立ち上がった。

「これきりにして頂きたい」

どうやら彼は踊ってくれるらしい。
わっと周りの神々がてんでに拍手喝采を浴びせた。
舞台上に居た舞妓も、しずしずとその場を後にした。

一度節子の方を振り向いた蛇神は、何も言わず、そのまま壇上へと向かって行った。
蛇神に合わせて、舞妓の傍に控えていた楽器隊も各々の楽器を持ち替えた。
これから蛇神一人の為の舞台が始まるのだ。

神達も舞台傍へと群がった。
少しでも蛇神を近くで見ようとしているのだろう。
節子もそれに続きたかったが、神々の中に一人入り込む勇気も出なかったので、その場で留まっておく事にした。

舞台上に上がった蛇神が扇子を持って合図を送った。
すると、脇に控えていたらしい出雲の下働きの者が、何やら白と赤の衣装を持って来た。

それを手にした蛇神が、ばさりと大きく扇を仰いだ。
その瞬間、下働きの者が持っていた白い衣装は先程まで蛇神が着ていた直衣となり、蛇神自身が着ている衣服も白拍子のものとなった。
黒の立烏帽子、真っ白な水干の着物、緋色の長袴。
本来は女が着る衣装である。
しかし、それは蛇神にとてもよく似合っていた。

楽器隊の鼓を持った者が、ぽんと高い音を奏でた。
それに合わせ、蛇神が足一歩引き、手をしならせる。

たったそれだけの動作で、周りの雰囲気が変わってしまった。
空気が凛と張り、蛇神の周りに清流が流れているようにも見えた。

「わあ」

節子は感嘆の溜息を零した。
辺りの者達も、一気に盛り上がりを見せた。

確かに彼は、その辺りの女では到底叶わない程に美しかった。
たとえば手付き一つを取っても、指先の動かし方、曲げ方、揺れ方、全てが流麗なのだ。

音楽もまた趣があった。
たとえ鼓一つのリズムだけでも、何の寂しさも感じない。
そして、それに合わせて踊る蛇神の、何と様になる事か。

時間が流れているのも忘れそうだった。
此処だけが別世界のようだった。
たとえ節子が男であっても、蛇神に見惚れていた事だろう。

蛇神の舞は男女双方を釘付けにする。
比べるべく他者も無い。

「オロチは美しかろう」

放心している節子のすぐ横で声がした。
はっとしてそちらを向けば、出雲に来たばかりの際に会った、猿に似た男が居た。
猿田大神だ。

「猿田大神様」
「おお、この猿田の名を覚えたか。
オロチに教えて貰ったか?」

素直に頷けば、「そうか」と猿田大神は笑った。
大きな鼻がぶらぶらと揺れている。

「オロチはほんに良い神だ。
しかし、少々頑固で融通が利かない所もある」

猿田大神は、手に持っていた酒をぐいと煽った。

舞台上では、相変わらず皆の注目を一身に浴びている蛇神が居る。
猿似の神は、その舞姫であるオロチこと蛇神の話を続けた。

「オロチは贄(にえ)を悉く断ってきたらしくてな。
自分の気に入らない娘など貰い受けても、何の得にもならないと言っていた。
古来、贄と交換に神の恩恵を民に施していた時代でも、オロチだけはその慣習を良しとしていなかった。
何とも偏屈な男神よ」

その話は、蛇神自身からも聞いた事があった。

蛇神は、生贄など取らない主義だと言っていた。
それも、本当の話だったようだ。

やはり昔は、神に人間の命を貢ぐ傾向が多々あったのだろう。
それを潔く断ってきた蛇神は、一神として偏っているのかもしれないが、一男としては格好良くもある。

猿田大神は、蛇神の過去の話を幾つか話してくれた。
たとえば、いかに蛇神が生贄を嫌っていたか。
一人だけで住まう事を貫き通してきたか。

だからこそ、節子を巫として迎え入れた事が不思議だとも言った。
今まで誰も溶かす事の出来なかった蛇神の心を柔くした節子。
その存在が貴重だとも教えてくれた。

猿田大神は、更に次いだ。

「またな、オロチは蛇ゆえに嫉妬深い所もある」

その話も少々覚えがあった。
先程の件がいい例だ。

普通、神という存在ともなれば、大概が鷹揚な性格をしているものだ。
勿論、蛇神も大らかな人となりをしている方だが、どうも節子が絡んだ時だけは器が小さくなるようだ。

そこまできつく可愛がられている自惚れがある訳ではないが、少なくとも大事にされているのだとは思う。
そもそもこの出雲に来たのも、得体の知れない化け物達の手から逃れる為だ。
それだけ蛇神は節子を特別扱いしてくれているのだろう。

純粋に嬉しいと思う。
どうして嬉しいと感じるのか分からないが、何故かそう思ってしまう。

蛇神の眼の中に自分の姿が映っているだけで、胸の鼓動が常と違う鳴り方をする。
優しく声を掛けられるだけで、身体中を巡る血が早くなる。
何処か触れられただけで、全身が痛いほどに反応してしまう。

まるで恋だ。
蛇神の昔の話を聞いているだけで浮かれている自身も居る。
これでは蛇神に片恋でもしているようだ。

猿田大神は、ふと話題を変えた。

「ところで、そちは竜神を知っているか?」
「はい。
でも、聞いた事ある程度ですけど」
「竜神はな、元は蛇より生まれたと言われている。
今では蛇より竜の方が位も高いとされがちだが、元々は蛇が化身。
その竜神もな、酷く情が深い生き物として有名なのだが」

竜の話をしたかと思うと、すぐに蛇の話となった。

「蛇も竜も、祖と子のようなもの。
要は同じ類の生き物だ。
その上、蛇は嫉妬深いとも言う。
だが、嫉妬深いという事は、それだけ愛が深いという意味でもある。
分かるか?」

暗に蛇神の情愛の深さを指したいらしい。

節子は黙ってこくりと頷いた。
心臓の音が心地良く転がった。
何故だか頬まで熱くなる。

「オロチは、ほんにいい良い神だ。
徳も高い」

猿田大神は、未だ壇上で踊っている蛇神に視線を移した。

蛇神は、盛っている観客から御捻りを投げられていた。
迷惑そうにしているが、興を削がれて踊りを途中で止めるつもりもないらしい。

「そちも良き巫になるようにな」

蛇神から目を離さぬまま、猿田大神が言った。
節子は「はい」と元気よく返事をした。

この感情は、やはり恋に似ているかもしれない。

蛇神は、その後二曲も立て続けに踊らされていた。
だが、節子が暇を持て余す事など無かった。
蛇神を見ているだけで、十分楽しい時間を過ごす事が出来たからだ。





TO BE CONTINUED.

2009.03.05

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!