小説 第十一話 「今日よりわしがお前さんの護衛じゃ」 社からの帰り道、あのクジのせいで、と茶帽の少年が零した。 茶蛙だ。 夜道の街灯が節子と少年を照らす。 傍から見れば、姉弟か何かに映る事だろう。 蛇神の言葉通り、今日は無事帰して貰う事が出来た。 近所の公園の時計台は短い針が十一、長い針は六を指している。 いつもの塾の帰宅時間よりやや遅くなってしまったが、まだ許容範囲内だろう。 以前も塾が終わった後で講師に質問をし、このような遅い時間に帰った事がある。 ただ、つい昨日に無断外泊をしたばかりなので、それが緒を引いていなければよいのだが。 節子と共に居る茶の少年は、些か剥れた面をしていた。 理由は、節子にあった。 節子から化け物の話を聞いた蛇神は、蛙達に節子の護衛を命じた。 その護衛役は、蛙達の中で話し合いを設けて決められる事となった。 茶蛙は、その選出に用いたクジで負け、節子の御守を押し付けられた事が悔しいのだ。 けれど、蛇神の命は絶対だ。 そして、節子が何者かに狙われているのも、正しくそれらしいようだった。 節子の為、強いては蛇神の為、蛙達が護衛をし、用心するに越した事は無い。 「よろしくお願いします」 節子は礼儀正しく頭を垂れた。 女子高生が小学校低学年ほどの子に敬語を遣い、尚且つお辞儀をするなど、滑稽な事この上ない。 二人の事情を知らない者であれば、首を傾げるだろう。 茶帽の子は、声を尖らせて返事した。 「面倒な事この上ねえが」 それでも仕方が無いから護ってやろう、という事らしい。 蛇神の下使いは、文句を言いつつも律儀に仕事をするきらいがある。 勿論、時に居眠りをしたり、粗相をしたりもあるのだろうが、根は蛇神ありきの真面目な僕(しもべ)なのである。 頼もしい限りだ。 節子と少年は、無事自宅前まで帰って来る事が出来た。 門扉に手を掛ける。 だが、ふとある事が気になって振り返った。 少年はきょとんとしている。 「ずっと付いて来るんですか?」 「蛇神様からそう言われとるが」 「じゃあ、私はずっと貴方を引き連れなければならないって事ですか?」 それは困るのだ、と節子は思った。 第一、家族に何と説明すればいいのだろうか。 今日からこの少年を家で養ってくれなど、言える筈が無い。 何処の子だ、一体何があったと質問攻めにされる事は目に見えている。 蛙の姿に戻って貰っていたとしても、また問題だ。 両生類を家の中に連れて入るだなんて、風変わりな事この上ない。 もし母親に見付かれば、大層騒がれる事だろう。 蛙姿のまま言葉を喋っているところを見られるのも、やはり困る。 だが、蛙にはその節子の懸念が伝わらない。 間誤付いている節子をじっと見詰めてくる。 帽子で隠れているから分からないものの、その眼も訝しげに顰められている事だろう。 「何か文句あるんかい」 「え、だって」 言うべきか言わないべきか、節子は迷った。 しかし、中途半端に隠してもこの相手には伝わらないかもしれない。 節子は神妙に口を開いた。 「小さな子供を泊める訳にもいかないし、蛙を連れてる変な女だって見られるのも、ちょっと」 些かニュアンスを変えたものの、正直に言った。 案の定、少年は頬を膨らませた。 「文句が多い娘っ子じゃな。 蛇神様がどうしてお前さんなんか気に入ったのか、わしには分からんわい」 腕を組んで、ぶつくさ不満を零す。 だが、そんな事を言われても節子とて困る。 節子自身も、何故蛇神が自分の事を此処まで構うのか、未だ分かっていないのだ。 幼い頃に会って「巫として迎え入れる」という約束をしたとしても、これは些か過度ではないだろうか。 況してや、五歳程の子が言う事など無効な筈だ。 十年も時が経っている。 時効だといってもいいかもしれない。 現に節子自身も全く覚えていなかったのだ。 玄関の戸に手を伸ばす。 節子が一度断ったにも関わらず、少年は一緒に付いて来るつもりのようだった。 節子の後ろに、ぴたりと張り付いている。 「あの、本当に家までは入って来なくていいです」 節子は再度止めた。 少年は益々声を不機嫌にさせる。 「何でじゃ」 人間としての常識に乏しい神の使いは、ご立腹だ。 その上、口も悪い。 節子は返した。 「学校と、塾と、その道中だけでいいです。 その時も人型じゃなくて、蛙になって鞄の中にでも隠れて貰えたら嬉しいんですけど」 人型であれば一見問題ないようにも見えるが、始終一緒に居過ぎるのは逆に怪しまれる。 「どうしてその子と常に共に居るのか」などと聞かれては、返答に困る。 だからといって、蛙姿のまま黒狐のように頭に乗せて移動する訳にもいかない。 頭上に蛙を据えて闊歩する女子高生など、注目の的だ。 それは避けたい。 もし連れ歩くならば、やはり鞄の中に入って貰わなければならない。 「注文の多い娘っ子じゃ」 少年はぶつぶつ言ったきり、それ以上節子に付いて来る素振りは見せなかった。 納得してくれたようである。 節子は「おやすみなさい」と挨拶をし、一人で自宅に入った。 そこには、寝間着を着た母が立っていた。 節子を待っていたようである。 「お帰りなさい」 「ただい、ま」 帰りが遅くなってしまった。 昨日の今日の事なので、また怒られるのだろうか。 節子は身構えた。 案の定、母は「遅かったわね」と怒気を孕ませた声で言った。 節子とて、本当はもっと早くに帰っていた。 だが、帰る直前で不審な化け物に襲われ、そこを赤蛙に助けられ、そのまま社へと連れて行かれてしまったのだ。 そのせいで、こんなにも時間を浪費してしまった。 節子は「塾の先生に分からなかった問題の質問をしていた」と説明した。 そうとしか言いようがなかった。 母は、数秒逡巡し、すぐに納得してくれた。 今日は無断外泊をする事もなくきちんと帰って来たので、一先ずは安心したのだろう。 帰る時間自体は常よりやや遅くなってしまっていたが、娘の顔を見た事でほっとしたようだ。 肩の荷を降ろした節子は、部屋に戻り、制服を脱いだ。 蛇神が用意してくれた、以前と何も変わらない制服だ。 寧ろ、以前より綺麗になっているのかもしれない。 染み一つ無い、皺一つ無い、まっさらな制服。 入学式を思い出させる。 これはまた大事に着なければならないなと、丁重にハンガーに掛けた。 そして、それをまた箪笥縁に置いた。 風呂はもう蛇神のところで済ませてしまったので、また入る気にはなれない。 食事も終わらせてしまった。 残るは、明日の宿題、予習・復習だ。 簡単なシャツと短いパンツに着替えた節子は、机に向かい、鞄の中から辞書と教科書を取り出した。 アルミ缶を切って作った簡易ペン立てから、シャーペンと消しゴムも用意する。 そして、明日の時間割に目を移した。 明日は、数学T、英語T、古文、現代社会、体育、家庭科。 少なくとも、数学と英語、古文は予習しなければならないようだ。 机の上のスタンドライトを点ける。 ぱっと手元が明るくなった。 節子は教科書を開いた。 そこには、小さな文字が沢山陳列されていた。 それを目で追っていく。 大事そうなところには、ペンでアンダーラインを引いた。 必要に応じて、辞書も用いた。 参考書も開いた。 メモを取る。 覚えていなかったところは、テキストを熟読する。 だが突然、スタンドライトの明かりに照らされて、見える筈のない影が映った。 誰かの手のようである。 勿論、節子のものではない。 もっと長くて骨ばった、爪も伸び過ぎている指だ。 また背筋が寒くなった。 先程、化け物に会った時と同じだ。 手の影がゆらゆら蠢いている。 木の幹が風に吹かれているような動きだ。 節子は後ろを振り返った。 誰も居ない。 それなのに、気配だけが何処かに漂っている。 「誰?」 節子は声を震わせて問うた。 返事は無い。 その代わり、鍵を閉めていた筈の窓が急に開いた。 寒い風が入って来る。 カーテンが勢いよく棚引く。 本棚の本が揺れ始めた。 額縁のパズルががたりと落ちた。 姿は見えない。 見えないのだが、確実に誰かが居る。 良からぬ何かが近付いている。 「嫌、嫌だ」 椅子から立ち上がり、節子はしきりに辺りを見回した。 付けていた電気がぱっと消えた。 金魚鉢の中の金魚がぷかりと浮いた。 部屋内の不気味さは、どんどん増してくる。 「茶蛙さん!」 節子は助けを請うた。 今頼りになるのは、茶蛙だけだ。 しかし、そのボディーガードを断ったのは、節子本人だ。 蛙は、まだ近くで節子の様子を見てくれているのだろうか。 こんな事ならば、蛙姿のまま、家の中まで一緒に来て貰えば良かった。 後悔先に立たずと言うが、その言葉をこれ程までに思い起こした事は無い。 節子は、背後から身体を掴まれてしまった。 蛙のものとは思えない、況してや蛇神とも思えない、乱暴でごつごつした腕だった。 首を絞められる。 息苦しい。 身体から酸素が逃げていく。 目を覆われた。 下賤な笑い声と、派手に割れるガラスの音が聞こえた。 TO BE CONTINUED. 2009.01.26 [*前へ][次へ#] [戻る] |