企画
求婚(笹塚)
笹塚が仕事の疲れを引きずりながら名前の家に着いたのは、2月14日もあと一時間で終わるギリギリの時間だった。
『無理しなくてもいいんだよ?』
数時間前の、電話口でもふわふわと柔らかく響く名前の声を思い出す。
その声の主は、忙しいならバレンタインデーの今日会えなくても大丈夫だから、と笹塚の身体を心配していたのだが、
それが笹塚が忙しくて会えなかった一週間分の恋しさを余計に募らせることになるのだなんて名前は気付いても居ない。
『チョコレートならお休みの日にちゃんとあげるよ。つまみ食いなんてしないから安心して』
「休みなんていつになるかわかんねーし、今夜行く」
『へえ、衛士ってそんなにチョコレート好きだったっけ』
「……とにかく、今日中にそっち行くから」
『わかった、できるだけ頑張る』
「何を」
『寝ないように頑張って待ってる』
忙しい笹塚と付き合っていくには、これくらいの距離感で接しないと色々と空回ることをじゅうぶんに承知している名前は、イベント事がある時は積極的に自分から動くことはしない。
それは決して笹塚のことを軽く思っているわけではなく、本人曰く“好きで好きでたまらないからこそ、我慢を重ねてるんだからね”だそうだ。
普段のほほんとしているので、とてもそうは見えないのだが。
「いらっしゃい衛士、ギリギリ今日中に間に合ったね」
名前のお気に入りのボーダーのゆったりとしたパーカーと黒のレギンスという部屋着姿の名前が笑顔で笹塚を迎えてくれた。
腰を引き寄せ口紅を乗せていない素の唇に軽く自らの唇を重ねると「煙草何本吸ってきたの」と呆れたように微笑む。
「コーヒーいれてくるね」
元々きちんと締めてなかったネクタイを更に緩め、笹塚は座り心地の良いソファに腰かけた。
映画を見て待っていてくれたのだろう。テレビでは数年前にヒットした海外の映画が流れている。
テーブルの上には半分残ってすでに冷めてしまっているコーヒー。普段ミルクと砂糖をたっぷり入れたものを飲んでいるというのに、カップの中身はブラックのようだった。
ふ、と笑みを浮かべ、笹塚はソファの肘掛にもたれかかり目を閉じる。
名前の顔を見て一気に仕事の疲れから開放され、眠気が襲ってきたのだ。
うつらうつらと舟をこぐ。名前が小さな足音を立ててこちらへ向かってくるのがわかった。
すぐに目を開けて、悪い寝てた、と笑ってコーヒーを受け取ろうと思ったが、
このまま目を閉じていたら名前は何をするだとうと少し興味が湧いた。
まあ、怒りはしないだろう。
「えいしー、おまたせ……やだもうこんなとこで寝ちゃってる」
笑みを噛み殺しながら、名前が傍に来るのを待つ。
カタリ、とテーブルにカップと何かを置く気配がした。
淹れたてのコーヒーの香りが本気で眠たくなってきた笹塚の鼻腔を刺激する。
続いて先程まで自分が包まっていたのであろう毛布がばさりと笹塚の身体にかけられ、笹塚は目を開けるタイミングを計る。
しかしきっと名前はもう笹塚のたぬき寝入りに気付いているに違いない。
「衛士」
くすくすと笑い声を立てながら唇に押し当てられたもの。
それは名前の柔らかな唇でも何でもない、鮮やかなオレンジとほのかなカカオの香りのする
「…………チョコ?」
目を開けると、名前に細長いオレンジピールにチョコレートがコーティングされたものを口に入れられていた。
齧るとオレンジピールの酸味と砂糖の甘み、そしてそれをコーティングするビターなチョコレートの苦味のバランスが口の中で弾ける。
「美味しいでしょ」
その細長いオレンジピールチョコを指先ですべて笹塚の口の中に押し込むと、名前は悪戯っぽい表情で艶のある笑みを浮かべた。
「これが今年の?」
「ううん、これは自分用に買ったもの。衛士のはね、焼酎のチョコボンボンを見つけたからそれと…………衛士?」
自分の言葉を聞いているというより、自分をやけに見つめてくる恋人に、名前はきょとんとしながら髪を揺らして首をひねる。
そんな名前の頬に手を伸ばし、笹塚はゆっくりと微笑んだ。
「あー、聞いてる。続けて」
「疲れてるんでしょ、もう寝たほうがよくない?」
「まだ」
そんなにバレンタインのプレゼントが欲しかったんだね。
笑いながら名前に渡されたものは、綺麗にラッピングされた小さな箱に入ったチョコと、ずっと気になっていた腕時計だった。
プレゼントを手に取り、早速腕に着けると「ありがとな。大事に使う」とその手で名前の頭を撫ぜた。
「前、お店でこれじいっと見てたじゃない? 買おうか迷ってるんだろうなって思って」
「節約中でね、金貯めてんだ」
「へえそんなこと初めて聞いた。何買うの?」
名前は楽しそうに、興味深そうに、大きな瞳を輝かせ床に膝をついたままソファに座る笹塚の足の間に肘を乗せ身を乗り出してくる。
「指輪。名前に」
「えええっ、ホワイトデーにそんなお金貯めなきゃいけないくらい高いお返しなんて考えてたの!? 去年と同じくらいでじゅうぶん嬉しいんだから無理しないで」
まあ、そうくるだろうなとこれまでの付き合いで予測は出来た。
笹塚は自分にかけられた毛布をくるりと名前の肩にもかけてやり、耳元に囁くように次の言葉を続ける。
「……式とか旅行とか」
「式? 誰か結婚するの? ご祝儀も馬鹿にならないもんね。旅行もいいね、ゆっくり温泉とかに浸かってしっかり疲れを癒したらその目の下のクマも少しは薄れるんじゃないかな」
これだから名前と居ると退屈しないのだ。
ふつふつと湧き上がる楽しさに、一度口に手を当てて咳払いしてから、名前の顔を覗き込むようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「俺と結婚して欲しいんだけど」
笹塚が言い切った、とふうと息を吐き、名前がその言葉にきょとんと瞬きする。
「ああ私達の話かあ、なるほどね!って………えええええいし! いまの言葉ナニ!?」
「プロポーズ」
あまりにも唐突な笹塚からの求婚に名前は目を見開いたまま一時停止してしまった。
よほど驚いたらしい。
出会ったころからどこかズレていて、畳み掛けるようにして捕まえたはいいが、傍に居てもどこかふわふわとしていて、いまだに追いかけている気分になる。
愛情はひしひしと伝わってくる。しかしもっと確実に自分のものにしたかった。
「これからは名前の為に生きていきたい」
その言葉の重みと真剣さに、名前の瞳から涙が零れ落ちる。
小さな涙の粒すら愛しいと、笹塚は名前の身体を抱き寄せスーツでその涙を受け止めた。
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