月に咲く (完結)
月に咲く・後編
これから先ずっと、この手は復讐の銃を握るためだけにあるのだと思っていた。
あの日、苗字さんが触れてくるまでは。
“患者さんからの頂き物です。よかったら”
屈託の無い笑みを浮かべ、饅頭を俺の手に乗せた。
その綺麗な指先が俺の手の一部に触れたその瞬間、自分の中で何かが変わる予感がした。
「笹塚さん?」
名前の声に、笹塚はいつの間にか視線を注いでいた自分の手のひらから名前へと顔を上げる。
「……初めて会った時、苗字さん饅頭くれたろ」
「ええ、そうでしたね」
「あれさ、もらわなきゃよかったな」
さらりと放たれた笹塚の言葉に、名前は笹塚が何を言おうとしているのかわからず首を傾げた。
「どうしてですか?」
「惚れちまったきっかけって、今考えたらあの饅頭からだったから」
「お饅頭が美味しかったからそれを私にくれた患者さんに惚れてしまった、と……」
名前は首を傾げたまま、頭の中を整頓するように言葉を紡ぐものの、それはいつものように的外れでとんでもない方へ向かっていた。
「どうしてそうなんの。俺が苗字さんに惚れたって方が話の流れ的に自然だろ?」
「ですよね、いえ私の聞き違いかと思って。だって私に惚れたとかそんな冗談」
「冗談なんかじゃねーよ」
「お饅頭をもらわなきゃよかったっていうのは」
「それは冗談。告白の取っ掛かりになりゃいいなと思っただけ」
大真面目な顔をしてそう言い放つ笹塚に、名前がふわりと花が開くような笑顔を見せた。
そしてその直後、ワンテンポ遅れてこの一連の会話がようやく理解できたようで、手のひらをパッと口に当てて頬を真っ赤に染める。
「俺の気持ち、ようやく届いたみてーだな」
優しく目を細める笹塚を名前は大きな瞳でじいっと見つめた後、小さくこくんと頷く。
「迷惑?」
とんでもない、と名前はぶんぶんと首を横に振る。片手に握ったままの紅茶の缶が揺れた。
「ま、俺が勝手に苗字さんに惚れてるだけだから気にしてくていーよ」
「そんな、気になりますよ!」
「どーして?」
「だってすごく嬉しかったし……」
「へえ」
「“へえ”ってなんですか“へえ”って、他人事のように」
「いや、なんつーか……俺の気持ちがちゃんと伝わる日がようやくきたのかとしみじみしてさ」
「?」
「なあ、さっき嬉しいって言ったろ。ってことはさ、俺は期待してもいいってこと?」
今この場で煙草を吸おうとは思わないが、無意識に心を静めようと笹塚は指を口元へ当ててしまう。
それをどんな意味ととったのか、名前の顔がこれ以上に無いくらい真っ赤になってしまった。
ああ、警戒させてしまったかと笹塚が口を開こうとしたその時、名前が意を決したように笹塚の腕にそっと身体を寄せてきた。
笹塚は短く息を吸い、胸に愛しさが満ちていくのを感じながら、名前の細い肩を抱き寄せる。
名前の柔らかな身体と髪の香りに引き寄せられるように、その艶やかな髪に唇を当てた。
しばらく二人黙って互いのぬくもりを味わう。
振りほどこうとしないということは、受け入れてくれるということだろうか。
遠くから漂ってくる金木犀の香りにふと気付いた時、名前に言うべきことを言っていないことを思い出した。
こほん、と小さく咳払いすれば、名前が瞳だけで笹塚を見上げてくる。
そのあたたかな頬にそっと手を当てた。
柄にも無く緊張してる自分を見て、名前の瞳が柔らかく緩められる。
名前もきっと待っているのだ。笹塚の言葉を。
「……俺と付き合って」
はい、と嬉しそうに返事をくれた名前の唇に、もう我慢できないとばかりに笹塚が唇を押し当てた。
その口付けは、名前の紅茶がすっかり冷めるまで続いた。
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