[携帯モード] [URL送信]

月に咲く (完結)
秋に惑う

笹塚と居る間中ずっとにこにこと楽しげに笑っていた名前が、時計を見上げて初めて顔を曇らせた。

「あ、そろそろ行かないと……」

結局、名前の休憩時間ギリギリまで待っていても弥子たちは帰ってこなかった。
名前はテーブルの上の自分の飲んでいた湯飲みを持つと、一緒に片付けた方がいいのかなと笹塚の顔を見る。
その様子に気付いた笹塚が、名前の顔を深い色をした瞳で見つめ返してきたので名前の心臓がドキリと跳ねた。
静かな声で「俺ももう出るから頼んでいい?」と言ったので、笑顔で「はい」と笹塚の湯飲みもお盆に乗せる。
自分の言いたいことが言葉にせずとも伝わって、少しくすぐったい気分になった。

とても楽しかった。笹塚とのゆっくり流れる穏やかな時間が。
交わした言葉を反芻しつつそのまま給湯室へ行き、今にも歌いだしてしまいそうなくらい浮き立つ気持ちで湯飲みを洗う。
元々洗ったまま水切りかごに置いてあった湯飲みを使ったので、すぐに乾くだろうと、シンクの横の水切りかごへ使う前と同じように伏せて置いておいた。

ハンカチで手を拭きつつ事務所へ戻ると、おもむろに笹塚が名前に向かって口を開いた。

「……鍋焼きうどんのCM」
「へ?」
「鼻歌、今歌ってたろ」

どうやら無意識に鼻歌を歌ってしまっていたらしい。しかも鍋焼きうどんのテーマソングを。
返事の代わりに顔を真っ赤にした名前を見て、笹塚がゆるく微笑む。

「最近、あのCM多いもんな」
「そうですね……」
「うどん好きなの?」
「好きです。いえでもうどんが好きだから歌っていたわけではなくてですね、というか本当に歌ってたんですか私」
「鍋焼きー、のコブシがかかる部分を鼻歌で完全再生してたけど」
「聞いたことを笹塚さんの記憶から消去していただけますか」
「無理」

そう言ってゆらりとソファから立ち上がると、笹塚はごく自然に「行こうか」と言って、
テーブルに置きはしたけれど一度も吸わなかった煙草の箱をポケットへ仕舞う。

「せっかくだから送らせて」
「え、そんな、送っていただくのが申し訳ないくらい近くですから!」
「近いってどのくらい?」
「歩いて五分です」
「ああ、もしかしてあの道の角にある歯医者?」
「はいそうです」
「じゃ、行こうか」

あれれっ、と名前は首をちょんと傾け今のやり取りに、目をぱちぱちとさせること数回。
20秒程してやっと、笹塚が自分を何が何でも送ってくれる気だということに気付いた。
紳士なんだな、と名前は促されるまま歩き出す。


▽▽▽▽▽


「苗字さんの家ってどこにあんの?」

道路わきに植わっている銀杏の黄色く染まりかけた葉に、もうすぐ見ごろだなーと見とれていた名前は、笹塚の声にハッと銀杏に傾いていた意識を身体へ戻した。

「弥子ちゃんの事務所から歩いて五分のところに。家と職場の真ん中にちょうど弥子ちゃんの事務所があるんですよ」
「へえ。だからしょっちゅう寄ったりしてんのか」
「そうですね、弥子ちゃんが居るときはメールくれるんで」

名前の勤める歯科医院は、高齢の先生一人に歯科衛生士の名前一人の、二人体制でやっている。
元々の衛生士の仕事に治療の助手、受付に消毒、掃除や雑務、それらを全て一人で任されているわけだが、
もう引退寸前の先生の所へくる患者さんはそれほど多くないので余裕でやっていけるのだ。
診療時間も午前中は9時〜12時までで、午後は16時〜18時まで。
午前中の診療が終わると、簡単な掃除をし器具の滅菌をする名前の横で、先生が患者の歯型に石膏をゆっくりした動作で流し、やはりゆっくりとした足取りで二階にある住居へ行って休む。
何十年もそうやってきたのだろう。その背中にはそういったことへの誇りが積もっていた。
技術は磨けば磨くほど光るが、昔ながらの技術に自信を持ち最先端の技術を上手く取り入れられないと、真新しいものをありがたがる者には無視されてしまう。
それでも結構、と背中は語っていた。引退が近いのだ。好きなようにしたらいいと名前は思う。

受付の横にある数個のロッカーの並んだ小さな部屋は、昔は数人の衛生士や助手が何人も居た頃の休憩室だったらしいが、その賑わいの名残も月日と共に無くなり、名前の目には物置にしか見えない。
名前は雇われた当時から一人きりだったので、昼になると入り口のドアの鍵をしっかり閉め、自分の家に帰って昼を取っていた。
弥子と出会ってからは、彼女が居るのだったら事務所へと顔を出し、学校へ行っているのだったら家へ帰っている。
居心地は悪くないが、男性と知り合える職場ではないことは確かだった。
お付き合い、というものをしたことが無いわけではないが、それは学生時代まで遡らなければならないほどに遠い過去のことだった。

「秋っつーより冬みてーだな……」
「風が冷たいですね」

ぴゅうと吹き抜ける風に、二人揃って肩をすくめる。
燃え上がる恋愛からは縁が無く、友達と仕事と生活と、それなりに一人で楽しんできた名前にとって、こうして男性と歩くことなんて滅多にない。
ふ、とそのことを意識したら途端に緊張感が湧き上がってきた。
笹塚の取り留めの無い質問に、名前はあわあわと一生懸命きちんとした答えを返そうとして結果的にとんちんかんなことを言ってしまう。
穴を掘って埋まりたい、と本気で思った頃に名前の勤める歯科医院へ到着した。

「どうもありがとうございました」

そして変な女ですいませんでした、と心の中で謝りながらペコリとお辞儀する。

「また送らせて」

思いも寄らなかった笹塚の言葉に名前はぽかんとしてしまった。
そんな名前を見て、目を優しく細め小さく笑った笹塚は、「じゃあ」と片手を上げて今来た道を戻っていった。





[*前へ][次へ#]

2/20ページ

[戻る]


第3回BLove小説漫画コンテスト開催中
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!