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月に咲く (完結)
混乱と現実



「ただいま」

このアパートで一人暮らしをはじめてから、私がこんな挨拶をするようになるなんて、と複雑な気持ちで黒のパンプスを脱ぐ。

「おかえり。塩ふっとく?」
「その冗談面白くない」
「……だな。どーだった?」

玄関で私を迎えてくれた衛士の後ろからいいにおいがする。今日は何を作ってくれたんだろう。
喪服なんて滅多に着ないから、身体中疲れていた。それ以上に心も疲れていたけれど。

「うーん、変な感じだった。あと、後ろめたくて早く帰りたかった」

普段そんなに動かない衛士の顔の表情が若干動く。

「石垣くんは呆然としてて、等々力さんは一生懸命頑張ってたけど、泣いちゃってたよ」
「……そうか」
「弥子ちゃんは……ショックが大きかったんだろうね、泣くのは堪えていたけど何かのきっかけで色んな不安や、苦しさが爆発しちゃいそうな、そんな顔で、」
「あの子は大丈夫。けど、俺のせいで辛い思いさせちまってるんだよな」
「私も辛かったよ。衛士のお葬式なんて二度と出たくない」
「あー……悪かった。もうなるべく死なないようにする」
「そうしてもらえると助かるよ」

衛士のお葬式は、今日静かに行われた。
現場に残されたのは衛士の血だけで、警察は生きている可能性も捨てたくなかったようだが、この出血では生きていないだろうとだれもが思うくらいおびただしい血の海に、
生存の可能性は無いと遺体のないまま葬儀を執り行うことにした。
それを決めたのは衛士の友達だという眼鏡のなんとかさんだ。
すごく優秀なのだろう。表情を少しも崩さず、悼む気持ちも、苦しみも、何もかも、
次の一歩へと踏み出す為の強さに変える、そんな人なのだなと遠くから見ていて思った。

「ああ笛吹な。……アイツらしいよ」

衛士は小さく笑って眼鏡の人の名前を教えてくれる。
そして、喪服の後ろのファスナーをゆっくりおろしてくれた。
静かな部屋にその音がハッキリと響く。
こんな音の無い部屋で、衛士はテレビも音楽も聴かず何をして過ごしていたのだろう。



「脳噛さんはきてなかったよ。知ってるのかな、衛士が生きてるって」
「俺を死なせないようにしたのはアイツだろうが、確実な方法じゃなかったんじゃないかな。
 多分、俺が本当に死んだか生きているのか確かめようが無くて、きっともう死んでる方向で次の手を考えてるだろうよ」

衛士はそう言いながら、狭いベッドの上で何かを確認するかのように指で自分の額に触れている。
私も指を伸ばすと、底の見えない瞳でじっと見つめられた。

「ここ、何も無い?」
「ニキビでもできた? あ、二十歳過ぎるとニキビじゃなくて吹き出物って言うんだっけ」

衛士の綺麗な額を人差し指で撫ぜる。男の人の肌だ。
指だけじゃなくて唇を落としてみた。何も無い。ニキビも吹き出物も蚊に刺されたあとも。

「撃たれたんだ」

あまりにもさらりとした衛士の一言に「打たれた?」と聞き返す。
すぐに「銃で」と付け加えられ、私は混乱する。
撃たれた事は、衛士に直接聞いた。けれど、どこを撃たれたかまでは聞いていなかった。
額なんて、そんな即死するようなところだったなんて。

衛士のお葬式の時、私はずっと考えていたのだ。
もしかして家で待っててくれている衛士は、生き返ったとかそういうんじゃなくて、私の脳が哀しみの余り作り出したものなのではと。
私の身体を抱しめてくれる衛士の腕は、ただそうされたいと思う気持ちが感じさせる白昼夢のようなもので、
私にしか見えない衛士の姿を瞳に映し、私の耳にしか聞こえない衛士の声に一人で応え、生きてると錯覚している状態なんじゃないかと、思ってしまったのだ。

だって現場には、生きているはずが無いくらいの大量の血が流れていたと聞いた。
鋭く大きなもので身体を貫かれたと推測される血だまりに、銃で撃たれたとみられる飛沫血痕。
それしか残されていなかった。だから、目の前の衛士は、ひょっとしたら私の願望が、死んだなんて信じたくない私の想いが、衛士を作り出してしまったんじゃないのかって、
お葬式で衛士の死を嘆くみんなを見て思った。
けれど一方で、それでもいいとも思った。
だって衛士はここに居るのだ。みんなにはもしかして見えていなくても、私の傍には居てくれる。
後ろめたかった。衛士を独り占めしてて、そして私だけ失う哀しみとは別の場所に居てごめんなさいと。

「痛かったでしょう」
「いや、一瞬だったから。……どーした、名前。名前?」

衛士の声に、私は自分でも気付かない内に涙を流していたことに気付いた。
申し訳なさそうな表情で私の涙を拭ってくれる衛士の指はあたたかくて、
美味しくて食べ過ぎてしまった衛士のご飯は、お腹の中でまだその存在を消化しきれていなくて少し胃がもたれてる。
無精ひげは伸びてきてるし、髪の毛から微かに煙草の香りがする。
部屋では吸わないでって言ってるから、ベランダで吸ってたのかな。

「ね、衛士。生きてる、よね?」
「ああ、生きてる」
「幽霊とかでもないよね?」
「幽霊なら名前を抱いたりできねーだろ」

言葉にできない不安ごと包むように、衛士は涙のひかない私をずっと、眠りに落ちるまで抱しめていてくれた。



翌朝、衛士の無精ひげが頬に刺さった痛みで起こされて、やっとこれは現実だと安心した。
そして髭剃りを買ってこなくてはと強く思った。




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