[携帯モード] [URL送信]

月に咲く (完結)
海に行く

その日、名前は一人魔界探偵事務所のドアの前で手を軽く握り、呼吸を整えていた。
ノックをしようと手をあげては下げ、そして深呼吸を繰り返す。
今日は木曜日。勤め先の歯医者の休診日だ。
いつもなら一人でショッピングをしたりふらりと映画を観に行ったりしているのだが、今日は違う。

「ドアなら開いてますよ。入ったらいかがです?」

部屋の中から脳噛ネウロの声がした。紛れも無く名前に向かっての言葉だろう。
ドアの前で十分以上ノックを躊躇っていたのだ。相手にはバレバレだっただろうと名前は苦笑いを浮かべながらドアを開ける。

「お邪魔します。こんにちは脳噛さん」

弥子は学校だ。名前はあえて弥子が学校へ行っている時間にここへきた。
ネウロは表面上では柔和に見える笑みを浮かべつつも、その真意を探るように深い色の瞳で名前をじっと見つめてくる。

「先日はスポーツクラブの1日体験無料券をどうもありがとうございました。おかげでだるんだるんにだらしのなかった先生の体型も少しはマシになりました」
「よかった。患者さんにもらったはいいけど私運動はそんな好きじゃないし、もらってもらえて助かりました」

ネウロは名前の前で本性を見せたことは無い。
正体が魔人ということさえも。

「それで、今日はどうされました?」

目線だけで促され、名前はソファへ腰かける。
唇を一度噛み、名前はゆっくり口を開いた。

「……私ね、結構運が良いの。運っていうか、勘がちょっとだけ人より働くって言うか」
「ふむ」
「昔ね、町内会で配ってた豚汁を私だけ飲まなかったの。嫌な予感がして。そうしたら皆がバタバタ食中毒で倒れていった」
「それはそれは」
「そんな予感をね、最近衛士と居る時に感じることがあって」
「…………」

魔人にはわからない、人間の、それも女性に備わる野性の勘というものなのだろうか。
(ただしヤコは人間の女の皮を被ったどちらかというとウジムシ寄りの為期待は出来まい)とネウロは思う。

ネウロは人間の持つ可能性の、いかに小さな事柄まで、決して軽視することはない。
人間の作り出す謎の力はネウロの脳髄を満たし、満足させる。
目の前の何の力も持たない非力な女は、今まで弥子が懐いているから、そして笹塚刑事の恋人だから邪険にしてこなかった、ただそれだけの存在だった。
しかし今この瞬間から、この苗字名前はネウロの空腹を満たす為に役立つ存在となったと、ネウロはニヤリと笑みを浮かべる。

「すごく不安。衛士は今のところ私や、弥子ちゃんの知ってる衛士であろうとしてる。けど、私にはわかる。もう戻れなくてもいいって覚悟を決めちゃってる、そんな気がする」
「貴女が居てもですか?」

ネウロの言葉に名前はさみしげに目を伏せた。




「悪いな、明日仕事だってのに」
「衛士ならいつでも大歓迎。なんなら毎日泊まっていってほしいくらい」

名前の冗談に笹塚がくすりと微笑む。

「今日休みだったんだよな、何してた?」
「んー、ぶらぶらしてたかな。忙しい恋人はたまーの夜にしか会えないから一人でお買い物したり」

名前の言っていることは本当だ。ネウロと話したことをぼかしただけで。
弥子の事務所へ行った後、全く気分の乗らないまま日用品を買い、
後は笹塚が来るまで家でぼうっとテレビで放送していた映画を見ていた。

「面白かったよ、なかなか」
「へえ。なんて映画?」
「……んーと、おじさんたちが釣りをする話」
「いつか行こうか」
「映画に?」
「いや、釣り。俺結構好きなんだ」
「そうなんだ」

笹塚は警察としての経験から名前の態度の些細な違和感に気付いていた。
けれど、あえて追求はしなかった。

「弥子ちゃん達も誘ったら楽しそう。海とか、いつかみんなで行きたいね」
「醤油とか持ってかなきゃな。弥子ちゃん、釣ったそばから食っちまいそうだ」
「あはは、ほんと。ワサビもいるね」
「名前」
「ん?」
「休み取れたら行こうな」
「うん!」

楽しい時間。楽しい会話。
それはギリギリのところでようやく保たれていることを二人は知っている。
しかし決して口には出さない。

出したらそこで終わってしまうからだ。





[*前へ][次へ#]

15/20ページ

[戻る]


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!