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月に咲く (完結)
色付く感情


事件の調書を取りに弥子の事務所へきた笹塚が事務所のドアを開けた時、いつもふんぞり返っている助手も何かを口に詰め込んでいる弥子の姿も無く、
そこにはただ一人、髪の毛をきっちり結わえたナース服姿の可愛らしい女性がぽつりと佇んでいた。

弥子達が居ない間に入り込んだ不審者でもなさそうだ。雰囲気でわかる。
だとしたら依頼者か?と警察手帳を見せ簡単に自己紹介をした笹塚にその女性は「ああ!弥子ちゃんにお名前聞いたことがあります!」と
寂しげだった表情を人懐っこさに変化させ、可憐な笑みを見せた。
その変化に笹塚がほんの少し目を見開く。

「初めまして苗字名前です。この近くの歯科医院で歯科衛生士をしてます」

淡い水色のナース服に紺色のカーデガンを羽織った名前がにっこりと明るく笹塚に笑いかける。
微かに漂ってくる消毒液のような香りは決して不快ではなかった。
この笑顔は怯えを呼び起こしそうな何もかもを消すような明るさを持っている。
その上、どことなく清楚な空気を感じるのはナース服の視覚効果かそれとも名前の人柄がにじみ出ているのか。

「歯科衛生士っつーと…口ん中掃除してくれたりする人?」
「あ、はい、そうですね。歯石を取ったり、虫歯予防の指導をしたり」

ほんわりと笑う名前の表情を見て、名前と接する患者は随分和むことだろうなと笹塚はぼんやりと思う。

「んな人がどーしてここに」

笹塚が首を傾げるのも無理はない。ここは桂木弥子魔界探偵事務所なのだ。
まるで借り物のようだった野暮ったい事務所をリフォームし、スタイリッシュな家具を配置した事務所は以前とは比べ物にならないくらい洒落た雰囲気になったが、
そんな中にナース服という見慣れない組み合わせに不思議な気持ちになる。

「前に弥子ちゃん達にお世話になって、それで時々遊びにきてるんです」
「あんたのその格好、まだ仕事中だろ。何かあったとか?それともサボり?」
「いえいえとんでもない、今は休憩中です。午後の診察は4時からなので」
「へえ……」

そこまで会話してお互いなんとなく口を開くことなく見つめあう。

「弥子ちゃんなら脳噛さんに連れられてさっき急に外に行ってしまったんです」
「ああ、そんなこったろーと思った」
「帰るまで待ちますか?」
「……あー、」

どうしようかと笹塚はくきりと首を鳴らした。
目の前の初対面の女性と、いつ戻るかわからない弥子を待つことを考える。
不思議と気まずさだとか面倒になりそうだとか、そういった感情は湧いてこなかった。
むしろ、もう少しこの女性のことを知りたいと思った自分に驚いた。
そういえば、と思い出す。前にちらりと、歯医者さんで働いている可愛くて優しい人と知り合えたんです!と弥子が言っていたことがあった。
おそらくこの女性のことだろう。

「アンタ…いや、苗字さんは?」
「休憩時間が終わるまでは居ようかなと。あ、お邪魔なら失礼しますけど」
「いや、一人で待ってても暇だしな」
「そうですよね!」

名前は嬉しそうに持っていたカバンから何かを取り出すと、どうぞ、と笹塚に向かってそれを差し出す。
とりあえず手を出せば、笹塚の手のひらに小さな饅頭が乗せられた。

「患者さんからの頂き物です。よかったら」

お茶淹れますねー、ともう何度もここへきているのだろう。慣れた様子で給湯室へ向かって歩いていった。
笹塚は何気なく時計を確認すると、今は14時30分を過ぎたところだった。
無意識に名前と過ごせる時間を計算していたことに気づいた笹塚は、どうしちまったんだとガリガリ自分の頭をかく。

「おまたせしましたー」

テーブルに置かれた何の変哲も無いほうじ茶の湯気が笹塚の鼻腔をくすぐる。
ソファに腰かけた笹塚の、その向かい側に座った名前が、カバンから自分の分らしき饅頭を取り出しにこにこと幸せそうに頬張る姿に思わず笑みが零れた。
手のひらで転がしていた饅頭の包装をゆっくりと破く。

「あー…遠慮なくいただくよ」
「どうぞ。このお饅頭とても美味しいんですよ」
「へえ」
「食べたら歯を磨いて下さいね」
「俺、歯ブラシなんて持ってきてねーんだけど」
「冗談です」

表情を変えない笹塚に対して、名前はクスクスと一人楽しげに笑う。

「………歯科衛生士さんオススメの歯ブラシとかってあんの?」
「歯茎の状態によってあう歯ブラシも違ってきますけど、一番大事なのは磨き方ですよ」
「へえ」

冗談のつもりで言った言葉が真面目に返ってきた。

「歯と歯茎の検査をさせていただけたらもっときちんとアドバイスできると思います。予約しておきましょうか?」
「いや、遠慮しとく。特に困ってねーし」
「気が変わったらご連絡下さいね」

この言葉に名前が電話番号を教えてくれるのかと一瞬期待を抱いたが、差し出されたのは名前の勤務先の歯科医院の住所と電話番号が載っているカードだった。

「………どーも」
「古くからやってる、衛生士も私一人しか居ない小さな歯科医院ですが、先生の人柄は良いんですよ」
「腕は」
「とっても優しいんです」

表情を崩すことなく名前が微笑む。
その笑みに笹塚の本能がこの女性の強さを嗅ぎ取り、警戒するというより身構えるというより、逆に近づきたくなってしまった。
柔らかな微笑みは安心感を与えるもので、きっと裏などないだろう。
その奥にある芯の強さに妙に惹かれるものを感じたのだ。

「苗字さんは優しいの?」
「優しく丁寧に歯石を取ってあげますよ」
「あのキーって音が嫌いなんだけど」
「慣れです」
「外で会えねー?」
「器具がありませんし」
「歯石取りから離れて」

携帯の電話番号、メールアドレス、警察の仕事で培った犯人に口を割らせる事情聴取の手法は彼女の前ではちっとも役に立ちそうに無い。
歯石を定期的に掃除することの重要性を真剣に話す名前に、どう口を挟もうか悩む笹塚だった。




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