はんしんふずい。 はんしんきのう。 五年。 これが俺に残された時間だった。 高三の冬、大学受験も無事合格しあとは入学式を待つだけの日常。ようやく鬱々とした重圧から解放され、肩の荷が下りた頃に長引いていた体調不良を完治させようと病院を訪れたあの日、透馬の人生はがらりと一変した。 何もかもが、変わってしまった。 何の変哲もないありきたりな診察室で告げられたのは、自身の身体に病魔が住んでいること。そして日本では手術を行えない、猶予は五年。 透馬は目の前が真っ暗になる、という感覚をはじめて味わった。訳がわからない。まさか、自分が近い間に死ぬだなんて。起き上がることも、歩くことさえ出来なくなる。ましてや、手術が成功する確率は目をつぶりたくなるような数値だなんて。 俺は、一体、どうしたらいいんだ。 今まで散々馬鹿なことをやってきたのだ。せめて大学位は卒業して就職しなければ親に合わせる顔がない、そう素直に思えるようになった途端これだ。バチが当たったのか、透馬は途方に暮れながらもすんなり現実を受け入れた。受け入れるしか、なかった。 今すぐ渡米して手術を受けろと言う両親や周りを納得させ、大学には通うことにした。せめて二年。手術を受けようと受けまいと、自分が死ぬことに変わりはない。ならばせっかく受かった大学に行ってみたかった、ただそれだけ。 そこで、透馬は春に出会う。 ちょっと口が悪くて、淋しがり屋のくせに甘え下手で、けして何事からも逃げたりしない真っ直ぐな春に。 春を知れば知るほど、透馬は現実を恨んだ。どうして今、春が現れてしまったのかと。どうして、自分はこんなにも愛おしい存在を知ってしまったのか、と。 そして同時に、自分は恵まれているのだと実感する。最後に、自分はかけがえのない人を見つけられたのだから。 春と付き合い始め、透馬は密かに覚悟する。けして、病気は打ち明けない。絶対に病気を餌にして春の良心につけ込んだりしない。そんな惨めで情けない姿はさらさない。何より、自分が耐えられそうもないのだ。 春はきっと、自分を捨てないだろう。どんなに苦しく辛い思いをしようと逃げず、病気と向き合い傍にいてくれる。 俺が、死ぬ、瞬間まで。 春は、俺を捨てられない。 ならば、俺から捨てるしかない。 どんなに身を裂く行為でも、大切だから、愛しているから、捨てていくしかないんだ。 透馬は自身の胸にすり寄ってくる愛しい感触を抱き締め、微笑む。どうかこの瞬間、自分の愛が彼を幸せに出来ていますように。 遠くない未来、自分がいなくなっても彼が幸せでありますように。 大学三年生。 透馬はまだ、春の隣にいた。 本当ならばとっくの昔に手術を受けられる海外の病院にいるはずだったが、透馬自身危惧していた通りに春を置いていく最後の決心がつかないでいた。 あと少し、あと少しと伸ばし続けた月日はとうとう一年。両親も、事情を知っている昔の仲間も段々痺れを切らし始め、当たりはきつくなるばかり。 けれどそれでも、透馬は春の顔を見てしまえば何も出来なかった。離れたくない、まだ、離れたくない。 だが、現実はそう甘くもない。透馬は身をもって知らされる。 その日は格段に目覚めの悪い朝だった。ベッドから起きあがるのも一苦労で、ようやく上体を起こした時には冷や汗で身体はじっとりしていた。黒々とする恐怖が全身を支配しそうになるのを気力で押し止め、携帯を掴む。無性に春の声が聞きたくなった。慣れた手つきで操作し、携帯を耳に押し当てようとした時だ。何の前触れもなく、するりと手の平から携帯が逃げる。ガシャン、携帯が床に落ち電池パックが外れる。 残響が、嫌に大きく響いた。 「っ……は…」 いつか、春をこの腕で抱きしめられなくなる。頬を撫でることも、手を繋ぐことも、キス、さえも。 ぶるぶる震えだした手をゆっくりゆっくり携帯に伸ばす。頭はぐわんぐわん揺れて、どうにかなりそうだ。 ようやく掴んだ携帯と電池パックを握り締め、透馬は涙を零す。みっともないとか、男のくせになんて考えは浮かばず、ただ恐怖だけが透馬を満たしていく。 こうやって、生殺しのように、自分は死んでいくのか。 ゆっくり、じわじわ病魔に食い尽くされていく様を、春に見せるのか、? 「そ、んなの……っ、耐えられるかよ…っ!!!」 嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。 耐えられる訳ない。 傍にいられる訳もない。 いつか、こんな日がくるのを予期していたじゃないか。 自分はただ先延ばしにしていただけで、直視したくない現実から逃げていただけだろう。わかってる。わかっている。もう、時間は残されていない。 まだ、動ける内に、喋れる内に春の傍から消えなくては。 君が愛してくれた、自分でいられる内に。 それからはあっという間。 一週間も経たずして慌ただしく日本を離れた。最初から決めていたように、春には何も告げず事情を知っている周りの奴らにも堅く釘をさして透馬は姿を消した。呆気なく、自分は春の世界から消えた。 その現実は透馬が思っていたより辛いもので、かろうじて繋がっていた人形の糸がぷつりと切れてしまったような彼の姿に周りは言葉を失う。 自分たちの声は届かない。今の彼にはただ一人、愛しい恋人の言葉しか届きはしない。 周りの予想通り、透馬はひたすら春のことを考え、答えの出ない問答を繰り返していた。これでいいんだ。別れを告げない方が、自分も春も傷は浅い。愛想を尽かしてくれればいい、恋人を捨てるなんて酷い男だと。 …本当にそうだろうか?何か一言でも残すべきじゃなかったか。別れよう、たった一言告げるだけでも−−ー。 そこまで考えて透馬はきつく瞼を閉じる。わからない。どうすれば良かったんだ。何が正しい行いなのか、最早自分にはわからない。わからなくなっている。じんわり、熱くなる目元を誤魔化すために、またしても強く瞼を閉じる。思い出すのは、春の笑顔ばかりだった。 病院に着いた途端、入院生活が始まり透馬は流されるまま検査や投薬を受ける。絶対安静を言い渡された一人部屋で、ただ空虚なまでに時間だけが過ぎていく。不意に何気なく開けた引き出しの奥、ぱったり使わなくなった携帯を見つけた。引っ張り出してみれば電池切れで、充電コードを探す。案外簡単に見つかったコードを差すと赤いランプがつく。電源ボタンを押した。 久しぶりに目にする待ち受けはやけに懐かしい。と言っても入院してからまだ一ヶ月しか経っていないのだが。慣れた手つきで操作していれば、覚えのない伝言が一件入っている。透馬は首を傾げながら伝言を残した番号を確認するためボタンを押して絶句した。 そこには馴染み過ぎた番号と、春、の文字。 「ど…して、」 こんな伝言は知らない。着信も覚えがない。はっとして日付を見る。残された日付は渡米する前のものだ。おそらく、何か用事があって残したのだろう。そう、わかってはいても。 聞きたくない。いや、聞いてみたい。春の声が聞きたい。だが、今更聞いてどうする。 相反する感情がぶつかり、混乱状態のまま透馬は抗えない誘惑にそっと携帯を耳に押し当てる。どくどく煩い心音がピッ、電子音にかき消された。 『あ、もしもし透馬?俺、春だけど。お前さあ、勝手に経論のノート持ってっただろ?あれ無きゃ俺が試験勉強出来ないじゃん!それくらい分かるだろーがこの馬鹿。馬鹿透馬』 「っ…!!」 『これで経論落としたら透馬のせいだかんな!責任とれよ責任。とにかく、近い内に取りに行くから。じゃ、またな』 ぶつり、再生の終わった携帯を握り締めて透馬は溢れる涙を止められなかった。目を隠すように押し付けた服の袖は瞬く間に色を変えていく。本当に、俺は馬鹿だ。ノートを借りたことも忘れていたし、春に何も告げず、ここまで来てしまった。 愛しているとさえ、伝えられずに。 俺は馬鹿だ。どうしようもなく馬鹿で愚かで意気地なしだ。春を誰よりも愛していた。今も愛しているのに、どうしてそれを伝えてこなかったのだろう。 春を傷付けたくなくて、泣かせたくなくて、それは結局言い訳でしかない。本当は自分自身が言いたくなかっただけだ。愛していたから、愛しているから、別れたくない。別れようなどと、口に出来る勇気さえ持てないだけだったのだ。 それほどまでに、君を愛しているから。 「−る…っは、る…っ…春…!!」 ごめん。ごめんな。きっと今の自分を見たら春は怒るだろう。目一杯瞳を釣り上げて、君は怒るんだろう。何も言わずに消えやがって!!と。 別れの一言くらい用意していけ!と。 簡単に想像がつくよ。お前はガミガミ怒って怒り尽くしたら、唇を噛んで泣きそうな顔をする。そっぽを向いて拗ね始めるんだ。そして弱々しい声で繰り返す。 馬鹿。馬鹿たれ。馬鹿野郎。馬鹿透馬。 俺が春を抱き締めるまで、或いは口付けるまで可愛くいじらしい姿をさらす。 俺は知ってる。知ってるよ。春のことならなんだって。知って、いたのにな。 何やってんだ、俺は。まだ遅くない。春に、俺がしてやれることはあるはずだ。抱き締められなくても、傍にいられなくても、まだ何かあるはずだ。けじめを、つけなくては。 強く、涙を拭う。泣いている場合じゃない。まだ自分は動けるのだ、喋れる内に、春に伝えなければ。 今までも、これからも、春を愛している、と。 後悔、してしまう前に。 さよならのかわりに愛を伝えよう (全身全霊君のため/知らずに重ねた思い出だらけ、) [*前へ][次へ#] |