リクエスト・記念品 進歩 「先輩」 優しい声が左隣から聞こえた。 私のことを先輩と呼ぶ後輩は何人か居るけど、こんなに温かみを含んだ声の持ち主を、奈美以外に私は知らない。 なんてことを、呼びかけられる度に考えるのだから、たぶん私は病気だ。それもかなり重症の。 「んー?」 いつも通りの気の抜けた声、もはや音のような返事をしながら首を左側に向けた。 「今日、何か予定はありますか?」 「いやー…ないね」 あったとしても、よほど大事なことでなければ私は予定をずらすだろう。 「どうしたの?」 「ギターの弦を、張り替えてみたくて。先輩、教えてくれませんか?」 そんなのおやすいご用だ。 すぐにいいよと返事をして、奈美の家へ向かった。 奈美の部屋に入るのは、何気に初めてだ。うーん、少し緊張する。もう何年という付き合いになるのに、お互いの部屋に初めて入ったのが今年だというのも、何かおかしな話だが。 奈美だから当たり前だけど、綺麗な部屋だ。 弦はいつの間にか自分で買いに行って、店員さんにおすすめされた弦を買ったらしい。柔らかめの弦だった。 「じゃあ、まずは弦を弛めて」 くるくると、ヘッドと呼ばれる場所に付いたペグを奈美が回して、弦は弛んでいく。 「で、この穴から手を入れて、裏からこのピンを押し出して」 サウンドホールと呼ばれる穴に手を入れ、試しに1弦を取り外した。 奈美はそれを真似て2弦のピンを押し出そうとしたが、なかなか出ないらしい。 見かねた私は自分の手もホールに入れ、奈美の手に手を重ねる。 「わっ…」 ぐつぐつと奈美の体温が上がったりだとか、顔の色が変わったとか、私の心臓の動きとかは無視することにして、ピンを押し出すのを手伝った。 「出来る…?」 「や、…やってみます」 そっと手を出して、私は奈美の動作を見守った。奈美は次々と、スムーズに弦を外していく。 全ての弦を取り外せたので、次に、新しい弦を取り出した。まずは6弦、次に1弦。 「6弦だけ張ってみせるから、よく見ててね」 ぐっと奈美がヘッドに顔を近付けた。その熱心さがとても可愛くて、けれどあまり近付けると弦の先が顔に当たるかもしれないので少し離れさせた。 「おっけー?」 6弦をだいたい巻いたあと、奈美に確認をしてみた。奈美は真剣な顔付きをしていて、思わず緩みそうになった口元を私はそうならないようにするので忙しかった。 「たぶん…やってみます」 1弦を手に取った奈美がそれを取り付けていく。 「細いから、気を付けて」 「はい」 くるくる動き回る弦の先を奈美の顔に向かないよう抑える。 奈美はありがとうございます、と微かに口元に笑みを浮かべた。 それを1弦含め5回繰り返し、弦を張り替える作業は終わった。 「綺麗に巻けたね。やったじゃん」 くしゃくしゃと頭を撫でると奈美は嬉しそうに身を捩った。 「じゃあ、次はチューニングだね」 がさごそ、と奈美が棚を探す訳はなく、すっと棚からチューナーを取り出した。そして慣れた様子でチューニングしていく。 一通りチューニングし終わったあと、もう一度5弦を鳴らした奈美は驚いた顔をしていた。 「もうこんなに音がずれてます」 「張り替えたばかりだとそうなるんだよ」 何度かチューニングを繰り返し、音が安定すると奈美はほっとしてギターを立てかけた。 「ありがとうございました」 「うん。これで、次からは自分で出来るね」 「はい」 ぼーっと奈美が私の顔を眺める。 なんだろうと思って、首を傾げながら何?と聞くと、奈美ははっとしたように一瞬目を見開いた。 「いえ、あの…ギターのことになると先輩って、…」 「ん?」 「本当に、頼もしくて格好いいなあ、と」 お、おお…? これは、どうなんだ。喜んでいいのか? ギターのこと以外になると、私はどうなんだ。 …ただのへたれか。 私からギターを取って、あとに残るのはそれぐらいだ。 「もちろん、普段の先輩は先輩で、好きですけどね」 悪戯に微笑んだ奈美にどきりとする。この子は本当に、なんなんだろう。 誰も近くに居ないのを良いことに、私は愛しい愛しい彼女の腕を引っ張って、無理矢理自分の腕の中に収めた。 「先輩…?」 「私も、好きだよ」 「…今日は大胆なんですね」 「どっちが」 2人でくすくす笑いあっていたら、不意に奈美が息を整えて、顔を上げた。 綺麗な顔だと思う。何度も、何度も。 この子が私のことを好きだなんて、本当は冗談じゃないのか、と思ったりする。そんな訳は絶対にないんだけれど。 「秀さん…」 最近、キスをして欲しいときにこう呼ぶようになった。もしかすると、この少し特殊な呼び方が私をそういう気分にさせているのかもしれないが。 「奈美の欲張り」 まあ、そんなことはもうどうでも良くて。 今さら近付け始めた顔を引っ込める訳にはいかないんだから。 [*前へ][次へ#] |