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苦辛



夕暮れ時、しんとした教室は私と無機物の影だけで装飾されていた。
ひんやりと冷たい誰のかわからない机に座って、ぼんやりと景色を眺める。たったったっ、と急ぎ気味の足音が近付いてくるのを感じながら。放課後の教室で、1人呆然としていた時に聴こえたのはその足音。
何故か帰る気になれない私は、それでも窓から外を眺めていた。
ガラッと、足音の持ち主が扉を開けたらしいので、私はその人を確認するために振り返る。

「あれ? 渚?」

現れたのは、祈という美少女だった。
珍しく解かれている黒髪を少しだけ鬱陶しげに後ろへやると、彼女はこちらに近付いてきた。
私は少し温かくなっていた誰かの机から降り、窓にもっと近付いて、彼女との距離は少しでも広げようとした。

「どしたの?」
「ちょっと、雄治に渡す物、学校に忘れちゃって」

苦笑いしながらそう言う彼女を、私は顔色ひとつ変えずに眺めて、そう、とだけ返した。あまり喋ると顔を歪めそうだから。
自分の机の中から何か袋を引っ張り出して、彼女はそれを鞄に入れた。ひとつひとつの手つきが丁寧で(彼女は誰に、何に対してもそうだけど)、それがとにかく気に食わない私はふいっと彼女から視線を外す。

「渚は?」

そのまま帰ればいいものを、祈はゆっくりこちらに歩み寄ってきたようだ。

「…雄治、待ってるよ」

この教室からは正門が見える。視力がとにかく良い私は、1人の見慣れた男子校生が門にもたれ掛かっているのも見えて、奥歯をぎりぎり言わせた。不愉快過ぎて歯が折れそうだ。
苦々しげに少し顔を歪めながら、私は人差し指で彼を指差した。

「いいよ、別に。待っててなんて、言ってないし」

彼女は私に倣って、窓際から彼を見つめる。
はぁっと漏れた彼女の息が窓を少し曇らせて、そこに彼女は文字を描く。女子と呼ばれる彼女達が書く丸い文字は、同じ女子であるはずの私から見ると何か可愛らしい絵のように見えてしまう。

「……」

描かれたモノが、どういう意味を今持っているのかわからなくて、私は彼女になんとも言えずに居た。
けど、たぶん意味なんて大してない。それはただの固有名詞。どこにでもありそうな、だけどここにはひとつしかない、私にとって特別な、私の名前。

「…渚」

甘く優しい響きを含む声に自分の名前を紡がれてしまえば、条件反射のように、いや、条件反射そのもので、私はにこりと笑う彼女を見てしまうしかなかった。

「なぎさ」

どんどん近付く、整った私好みの顔。私は必死になって逃げる理由を考えながら、動かない。
例えば、今校門にもたれているだろう雄治という存在。祈の彼氏という肩書きを掲げることを許された、何人かの中の1人である彼。それから、他の彼。そして、何人かの彼女。
私以外の誰も、そのことを知らない。
祈は隠し事が上手く、人に疑われたことなどないのが当たり前のような、潔白な雰囲気を出していた。
これだけ逃げる理由がありながら、私は動かない。
誰かが彼女を意のままに愛する時間があるのは、とってもとっても不愉快なのに変わりはない。けど、そんなこと言った所で、どうせ彼女は私の言葉を上手く砕いてマジックのようにぱっとその言葉すら消してしまうんだろう。ひょうひょうとした彼女の特技はそれだ。
そもそも、彼女の中で1番の存在だと本人が言う私以外に、恋人が居るという現状は、私が彼女を嫌いになるか、彼女が私以上に好きな人を見つけない限りなくなることはない。彼女は他人と私を比較して、そうしてやっと私を好きなのだと確認する。彼ら彼女らには可哀想な話だけど。

離れていく顔に安堵して、そして私は唇に生まれてから、今まさに消えかけている少しの違和感に眉をしかめる。

「…渚」

いつもこんなとき、祈は私に申し訳なさそうな顔をする。そんな辛そうな謝罪は、いつも私を泣かせようとするだけだ。
彼女の腕を引いて、私の腕で彼女をぎゅっときつく抱き締めさせてもらって、何度か名前を呼んで、そうしてやっと、私は少し笑える。
それが私の、彼女と私のいつも通りだけど。だけど。けど。

(…もう、耐えらんないかも)

好きでも疲れるなんて、あるんだ。
とてもこれは、口から出せそうになかった。


校門より少し離れた所、一組のカップルが手を繋いで歩いている。私は無表情でそれを見つめていた。ちらりと、彼女がこちらを見た気もしたけど、どうだろう。
ぼやけた視界に気付かないふりをしていた私は、焦点を合わせ直して鏡となった窓に映った自分の顔を見て、堰を切ったように大泣きした。

彼女のこの確認がなければ、彼女はきっと、私から離れていってしまう。その腕を取りに行く勇気が臆病な私にはない。腕を掴んで振り払われたら、考えると怖いから。
じゃあ、拒めば、とか、そんなのも出来ない。こんな形でもなんでも、何より私は彼女を好きすぎる。
近付く彼女を拒めないし、遠のく彼女を引き留められない。
だから、私は、今までも今もこれからも、動かないし動けない。
苦虫を噛み潰したような顔から少しだけ泣きそうになって、そして少し笑って、だけど結局、泣くんだろう。

止まらない涙が塩辛かった。





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あきゅろす。
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