リクエスト
この狭い、世界の中で1/優しい×無口
むかし、むかし。
人間が神と自然と共に生きていた時代(ころ)。
神の声を聴く者と、その者に使える少年が居りました。
この狭い、世界の中で
「お早うございます。那由多様、朝餉の用意が整いました」
少年の若く澄んだ声音が静寂に染み渡る。
那由多(なゆた)は重い瞼をユルリと開け、起き抜けの身体を徐に起こした。
春先とは云え早朝の空気は肌寒い。温かな布団の中が早速恋しくなった。
しかし五歳も年下の少年が部屋の前で待っている状況と云うのも、大人として情けない。
那由多は頭を振り、眠気をフルフルと追い払った。
「はい。今、行くよ」
「はっ」
障子に映る少年の影が立ち上がる。
廊下を歩む足音も静かに彼――清(せい)は那由多の部屋の前から消えた。
那由多も立ち上がり、浴衣の帯をシュルリと解く。着替えは迅速に、身支度と同時に精神も整える。
幼い頃より神と言葉を交わしていた那由多は、この村の巫祝だ。
村人は那由多を尊び、或いは恐れ、一線を引いている。住居も人里離れた村の外れで、訪ねて来る人間は殆どが外部の者だった。
「お待たせ。味噌汁が冷める前には間に合ったかな?」
障子を開けて居間へ入ると、那由多は清に声をかけた。
「はい。丁度、熱いお茶が入った所です」
清が静かな動作で湯呑をお膳に置く。その表情は凍ったように変化が見えない。
十六と云う若い年齢に似つかわしくない程、清の性格は落ち着いていた。無駄口も叩かず、少年らしい無垢な笑顔も見せない位に。
そんな清を『無愛想な子供』と呼ぶ者も居るけれど、那由多は可愛く思っていた。
「ありがとう。清君は気が利く良い子だね」
笑顔で礼を伝える。と、清が静かに頭を下げた。
照れた様子一つ見せず、涼やかな音が鳴る様に口を開く。
「勿体ないお言葉です」
気を使う必要はない、と云う様な雰囲気が伝わって来る。那由多がいかに清を可愛がっていても、清自身は家臣の壁を崩さないのだ。
「いいや」
彼には愛された記憶が無いから、ソレが愛だと気付かないだけか。
「感謝しているよ。何時も」
那由多は清との距離を一気に詰めた。
青く澄んだ瞳が見詰め返す。
「私もずっと、独りだったから……。君が居てくれて嬉しいんだ」
那由多は神の声を聴ける。特別な存在だ。けれどその能力を持っているが故、隔離される様にこの屋敷へ押し込まれた。血の繋がった肉親との記憶も少ない。
対して清は身寄りがなく、那由多に使える事で生計を立てていた。そんな寂しい二人が暮らし始めて、もう五年だ。
庇護欲は止めどなく育ち。隠す事など出来なかった。
清の頬に触れる指先からも、一欠片の言葉からも。
ポロポロ。
ポロポロ。
愛情が溢れてしまう。
「私は……いけない大人かな?」
「……」
無表情のまま押し黙る清。その瞳は感情の揺らぎを一切見せない。
「ボクには……貴方へ返す言葉が分かりません……」
抑揚の無い声はそれだけを伝え、喉の奥へ引っ込んだ。
ズキリ。
胸が痛む。
愛情が伝わらなかったから、ではなく――清の心を思って。
「ごめん。困らせる積りはなかった」
那由多は指を引込め、清との距離を開けた。
「……いえ。……悪いのはきっと、ボクの方なのです」
清が視線を足元へ落とす。其処には畳の網目が無限と錯覚するほど続いていた。
心の迷い人を誘い込む様に。
「それは違うよ。絶対に」
◆◆◆
那由多は巫祝として多忙な毎日を過ごしている。彼の評判を聞きつけた者が引っ切り無しにやって来るからだ。
今日も早朝から、村外の者が遠慮なく玄関の戸を叩く。
トントントントン、ドンドンドン。
段々と激しくなる音に怒気が交ざる前に錠を外し、客人を案内するのは清の役目だ。
廊下を静々と進む足音を聞きながら、那由多は精神を引締めた。
やがて確認の言葉と共に障子が開く。先に顔を出したのは客人で、清はその傍らで頭を下げていた。
けれど客人はそれに気付かず、部屋の中へズカズカと足を踏み入れて来る。
年齢は30代後半といったトコロだろうか。着古した着物の裾が泥で汚れている。余程急いで、此処までの道のりを駆けて来たのだろう。周りの様子も気にかけぬ程に。
「アンタ、神の声が聴けるって本当か!?」
興奮状態の鼻息も荒く、まるで猪突猛進なイノシシの様だ。
「はい。ですから、貴方も訪れたのでしよう?」
那由多は客人の眼を真っ直ぐ見据えた。
落ち着きなさい、と澄んだ瞳で語りかける。
彼の様な客人は珍しくない。
いや、むしろ。心に杞憂を抱えない客の方が珍しかった。
最初は『冷やかし目的』だと言って薄ら笑いを浮かべていた人間も、最後は苦しみの泥を吐き出す。悩みを持たぬ人間など皆無に等しいと云う事だ。
今回の客も自らの内情を戦慄く唇で語り、那由多の助言を素直に聞き入れた。重くとも軽くとも、直面している本人にとって人生の岐路を左右する一言を。
「――疲れた……」
暗闇に染まる天井を眺め、那由多は息を吐き出した。
後ろ向きな『気』は那由多の精神にも重く伸し掛かってくる。厄介な置き土産だ。
疲労は休みなく溜まり、回復も追いつかない。それは那由多にとって神の声を聴く事よりも精神を磨り減らす。日々の蓄積。許されるなら、このまま眠ってしまいたかった。
その時――
『眠れば良いではないか』
人間離れした神聖な声音が、那由多の脳に直接響き渡る。それは那由多にしか聞こえない声。神の問い掛けだった。
「駄目ですよ。今、清君が夕餉を作ってくれている。眠ってしまってはそれが無駄になってしまうでしょう」
『一途な事よ。それで色よい返事が貰える訳でもあるまいに』
光の玉が集まり、神々しい人型が作られてゆく。蛍の光とも錯覚するソレは神の降臨を教える合図。那由多は口角に笑みを乗せ、居住まいを正した。
「これは厳しいお言葉」
「思ってもおらぬ事を……。一度張り付かせた面を容易に剥がせないのは何方の方だ?」
人間離れした深紅の眼光が闇を差す。
揺蕩う白蛇の髪も妖しく。その神は仮初の全容を現した。
「私は良いのです。普通の人間らしさ等、誰も求めていないのですから」
神秘さや一線を引いた距離感。
人々が那由多に求める要素は神の面影だ。
自分が見えぬからこそ、その代弁者である那由多へ、余計に期待する。見えぬ神の身代わりとして。
幼い頃からずっとずっとそうだった。
今更何を言われても、那由多の性質は変えられない。おそらく永遠に。
「それは可笑しな事よ。ならば何故、お主は“特定の人間”を特別視するのだ? 触れられぬ様に張る線ならば、誰にでも等しく平等に張るべきであろう」
神の許を離れた光の玉が那由多の周りに集まり、自由に遊ぶ。孤立した意志など存在しない、一時の幻影だと云うのに、実に楽しげだ。
「その時点で、お主は普通の人間だ。我との繋がりを言い訳にするでないわ」
「それも可笑しな意見でしょう。神が本当に等しく平等な存在なら、貴方の姿は私以外にも見えている筈だ」
那由多は右手を広げた。すると、光の玉が掌の表面を幻想的に照らす。この光景も又、那由多の瞳にしか映っていない。神の仕業だ。
「本当の平等なんて、神にさえ創れない。白蛇様も他の神様方と“喧嘩”する事くらいあるでしょう? 貴方、やたらと偉そうだから」
那由多は十年来の友へ向ける様に気安く肩を竦めて見せた。
いや実際に、この神――白蛇(はくじゃ)は那由多のもっとも親しい存在だった。片恋と云う、先の見えぬ霧雲に覆われた清との関係よりも。
「何だと?」
「そのくせ、分かりにくく御節介だ」
白蛇があからさまに不満そうな顔をするので、那由多はクスリと笑んだ。
「けれどお気遣い、ありがとうございます。貴方の言葉は例え神の御心でなくとも胸に沁みる」
「素直に受け入れる気がないくせに、よう言うわ」
白蛇が着物の袖口で口許を覆い隠す。
果たしてその下の唇は弧を描いているのか、それともへの字に歪んでいるのか。那由多は何方も想像して、又、クスリと笑んだ。
次の瞬間、部屋の襖がスッと開く。
「失礼いたしま……す?」
現れたのは、清。
何時も通りの無表情ながら、那由多を見る目に疑問符が浮かぶ。
独り笑顔の理由を不思議がっているのだ、と那由多は直ぐに気付いた。
「いやなに。少しばかり談笑をね」
「あっ、それはお邪魔を」
清が開けたばかりの襖を慌てて閉めようとする。
清自身は白蛇の存在を感知する事が出来ない。けれど、那由多の意図した状況は難なく汲み取ってくれたようだ。
「いいよ。邪魔ではないから、行かないでおくれ」
那由多は立ち上がり、清を引き止めた。
背中に重く伸し掛かる疲労の楔もゆっくりと千切れ、清の傍まで笑顔を崩す事無く到着する。
「いえ、ですが……っ」
言い淀む清。
何かを探す様に彷徨う視線が那由多の瞳に行き着く。
「ボクは……ボクには、貴方の瞳が映す世界が視えないから」
吐き出された言葉は確かな感情が宿り、那由多の胸を切なく揺らす。
「それはそうだろう。私にも、清君の視ている世界は視えないよ」
人間は誰でも、己でしか自分の世界を知りようがないのだから。今、清の心の中でどんな葛藤が渦巻いているのか、那由多は想像する事しか出来ないのだ。
「だから、ねえ。君の瞳が泣きそうな理由を教えてくれないかい?」
清の瞳を真っ直ぐ見詰めて、優しく問う。
「知りたいんだ。今考えている事が“自分本位な自惚れ”ではない、と」
震える頬に掌を添える。
すると清はクンっと息を呑み込み、戸惑いのまま唇を開いた。
「わ……っからないのです。何故だか急に、胸の奥が締め付けられて……この口が勝手を致します」
「勝手?」
那由多は掌を下へ滑らせた。
続きが聞きたい。と、清の下唇を人差し指の先で促す。
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