リクエスト
我が青春の青葉2


 情けない飼い主で本当に申し訳ない。青葉はそう言って、滑らかな頬を赤らめた。




 ◆◆◆




 それから五ヶ月後。季節は冬と春を越え、すっかり夏本番だ。
 玉のような汗が額に浮かび、頬へと流れる。それを手の甲で拭い、龍之介は真横を向いた。

「ワンワン!」

 シロウが『頑張れ、頑張れ』と言うように元気よく鳴く。
 今日は弓道の試合が開かれている。龍之介の友人でありシロウの飼い主である青葉も、出場者の一人だ。

「きゃあ〜ワンちゃんだぁ」
「おおきいねぇ!」

 五歳くらいだろうか、おさげ髪の女の子と坊主頭の男の子がパタパタ駆けて来る。
 シロウの許まで到着すると、二人揃って龍之介の顔を見上げた。

「おにーちゃんのワンちゃん?」
「いや、飼い主は俺の友達。今日はそいつの試合を観に来たら、何故か後を追いかけ回された」

 どんより雲を背負う龍之介。
 シロウは青葉の言葉通り、人懐っこい犬だった。それはもう、龍之介の姿を見かけただけで、全力疾走で向かって来るような。懐きっぷりだ。

「そっか、なかよしさんなんだねぇ」
「ワンワン」

 シロウが『そうだよ』と、背中へ攀じ登ろうとしている男の子に答える。

「ハハハ……ハァ」

 しかし龍之介は乾いた笑みと共に溜息を吐き出した。
 長年の苦手意識が簡単に改善される訳もなく、龍之介の腰は今も若干引き気味だ。
 しかし流石に慣れも有る。青葉が試合で忙しい時くらいはと、シロウの面倒を引き受けていた。
 幸いにもシロウは人を噛むような狂犬ではないので、周りの観客も笑顔で接してくれる。
 こうして近寄って来る子供も三組目だ。

(俺が初めて出会った犬もシロウのような性格だったら、苦手意識は生まれなかったんだろうな)

 もしもの過去を想像する龍之介。穏やかな南風が観客席を吹き抜け、麦わら帽子を揺らす。

(青葉君とも……もっと仲良くなれただろうか?)

 トクントクン。心臓が甘い旋律を奏でる。
 青葉に申し出られた日から今日まで、二人は純粋な友情を築いていた。けれど龍之介は違和感を感じる時がある。
 二人の間に流れる感情は本当に友情なのだろうか。
 青葉以外にも親しい友人は居るが、何処か違う。
 青葉は眩しい。存在自体が輝いている。ふと気付けば、龍之介は青葉の事ばかり考えている。

「ねぇ。おにーちゃんのおともだちはどのひと?」

 おさげ髪の女の子がシロウの横腹を撫でながら問う。

「ん? ああ、次に矢を放つお兄さん。ほら、立ち姿がとても綺麗だろう」

 空を割く矢筋が見え易いように、観客席は矢道の横に位置している。
 射場に立つ青葉の姿は角度的に横顔しか見えないが、キリリとした眉は真剣そのものだ。

(嗚呼、本当に本当に綺麗で……キミに何度も見惚れてしまうよ)

 弦を引く長い指も、的を射ぬく力強い眼差しも。
 青葉を構成する何もかもが、龍之介を惹き付けて離さない。

「青葉……」

 指が疼く。
 削り立ての鉛筆と真っ新な画用紙が無性に恋しい。
 やはり自分は何処か可笑しいのだと、龍之介は改めて思った。




「ワオーン!」

 シロウが全速力で駆け出す。巨大筆のような尻尾もブンブン振り回して、とても嬉しそうだ。

「わっ! シロウ、祝ってくれるのかい?」

 巨大な愛犬の抱擁。青葉は驚きつつも笑顔でそれを受け止めた。
 シロウが後ろ足で立ち上がると、青葉の姿が殆ど隠れる。

「うお! 何じゃあ、白熊かえ!?」

 青葉の次に控室から出て来た少年が目を丸くして、一歩飛び退く。
 試合中も見かけた毬栗頭。彼は青葉と優勝を争った、他校の弓道部員だ。

「いいや、家の犬だよ。可愛いだろう」

 青葉は答えながらもシロウの背中を優しく撫でる。

「可愛いちゅーか、雄々しいのう。こがぁに立派なワンコ、初めて見たわ」

 少年は青葉の隣へ移動すると、シロウの全身を食い入るように見詰めた。

「わしは寮住まいじゃけん、動物は飼えんのんだ」

 訛りの強い独特の口調に羨ましさが交ざる。
 どうやら彼も犬好きのようだ。両指がシロウの背中を撫でたそうにワキワキ蠢く。

「良かったら、撫でてあげてくれ。シロウはとても人懐っこい子なんだ」

 青葉はシロウの前足を地面に下ろすと、数分前の好敵手へ微笑んだ。

「ええんか? ほいじゃ、遠慮のう――ワシャワシャワシャ!」

 飼い主の許可を得た毬栗はシロウの背中を本当に遠慮なく撫で回す。雲のようにふわふわな犬毛がグチャグチャだ。
 しかし青葉もシロウも気にせず、毬栗との親交を円滑に進める。

「……楽しそうだな」

 龍之介はその様子を、木陰から独り淋しく見ていた。

(完全に出遅れた)

 爽やかな弓道少年はお互いの勇士を称えたり、シロウの話題で盛り上がっている。
 如何に青葉の友人と云えど、簡単に割り込めない雰囲気だ。
 このまま毬栗との会話が終わるまで、邪魔をしないように隠れていようか。
 龍之介がそんな事を考えていると、青葉が友人の不在に気付く。

「そうだ、シロウ。龍之介君は一緒じゃないのかい?」

 青葉は愛犬に問いながらも、自ら龍之介の姿を探す。
 キョロキョロと辺りを巡る視線が妙に気恥ずかしくて、龍之介は茂みの中へ身を伏せた。

「ワンワン」

 シロウが振り向く。そして全速力で走り出した。
 控室の裏手に位置する林の中へ一直線。突進するように茂みの中へ顔を突っ込む。

「うわぁ!」

 龍之介はアッサリ見つかった。
 シロウの大きい口がズボンベルトを銜え、龍之介を茂みから引っ張り出す。

「何じゃ、連れがおったんか」
「うん。友達の龍之介君。シロウと仲良しなんだよ」

 青葉の前までズルズル引き摺られて行く龍之介。シロウの口許から覗く鋭い牙に、心臓が跳ね上がる。
 けれど青葉の眩しい笑顔を壊せず、冷静な友人の仮面を必死で被った。

「や、やぁ……キミへ贈る優勝祝いを考えていたら、シロウに先を越されてしまったよ。アハハハ」

 早口で捲し立て、ハァと溜息を零す龍之介。
 疲労がどっと伸し掛かる。

「キュウ〜ン」

 口を離したシロウが龍之介の腕に頭を擦り付ける。
 撫でて撫でてと甘える鳴き声に促され、龍之介は白く柔らかい毛並を震えながら撫でた。

「ワフワフ。ワフ〜ン」

 シロウが軽い足取りで青葉の許へ戻る。尻尾もフリフリ上機嫌だ。
 そんな愛犬の様子に、青葉の頬も緩む。

「うん。本当に龍之介君は優しい人だね、シロウ」

 甘く蕩ける青葉の声音がこそばゆい。
 シロウが離れて安心した筈の心臓が再び跳ね上がる。

 その後毬栗も応援に来ていた友人達と合流して、青葉と別れを告げ合った。




 ◆◆◆




「わぁ! 凄いな」

 青葉の瞳が幼い子供のようにキラキラ輝く。
 雄々しい滝の流れが眼前に広がり、自然の美しさに圧倒される。
 此処は龍之介が描いた場所――シロウと出会った日の早朝に、休憩してた川の上流だ。

「でも良かったのか?」

 龍之介は青葉の横に立ち、照れくさく問い掛ける。

「折角の優勝祝いだ。多少贅沢な物を強請られても、俺は構わないが」

 と、云っても龍之介はしがない学生の身だ。
 破産するような贅沢品は贈れない。が、それでも青葉の前でついつい恰好を付けてしまう。男の小さな見栄だ。

「いや、この景色が一番良い。実は龍之介君の画を見た時から、ずっと来てみたかったんだ。最大のお強請りだよ」

 満面の笑顔で応える青葉。偽りの無い言葉が、龍之介の耳と心に甘く響く。
 午後の陽光を受ける梢がサワサワと揺れて、爽やかな風が二人の間を吹き抜ける。
 それだけの事で、全身の熱が頬に集まった。

「……ッ。今日はあ、暑いな……汗が中々止まらない」

 喉が意味もなく詰まる。
 龍之介は額に浮かぶ汗を手の甲で拭い、動揺を誤魔化した。
 けれどそれは無駄な足掻き。

「そうだね。日射病になってしまうかな?」

 青葉の頬も朱に染まる。
 まるで龍之介の動揺が伝染したように、彼の声音も気恥ずかしそうだ。

「ワオーン」

 その時、シロウが滝壺に向かって駆け出す。
 ザッパーンと豪快な水飛沫が上がり、七色の虹が浮かぶ。

「ワフ〜ン」

 涼しげに泳ぐシロウ。
 水面から顔だけを出して、ちゃぷちゃぷ進む。

「ぷっあはは。賢いな、シロウ。その手が有ったか」

 青葉が愛犬の行動に吹き出す。
 水飛沫は河原まで届き、龍之介や青葉も頭から水を被っていた。

「本物の犬かき、初めて見た」
「ふふ。シロウは子犬の頃から水浴びが好きでね、暑い日は自分から川に入ったりもするんだよ」
「それは行動的だな」

 感心するやら、驚くやら。
 シロウは色々と犬離れしていると、龍之介は思った。

「なぁ、龍之介君。僕達も泳ごうか」

 青葉が龍之介の顔を覗き込み、眩しい笑顔で誘う。

「ああ。折角滝まで来たのだしな。俺達もシロウに負けないくらい堪能しよう」

 龍之介も笑顔で頷く。
 そして二人は着ている服をすべて脱ぎ去り、下着姿になった。
 幸い、この場に悲鳴を上げるようなご婦人はいない。恥ずかしげもなく半裸姿を曝す。
 弓道少年の青葉は流石に引き締まった肉体の持ち主で、腹筋が四つに割れていた。
 龍之介が純粋な尊敬の眼差しを向けていると、青葉が恥ずかしそうに一歩下がる。

「あ、あまり見られると照れくさいな」
「すまない。他意は……ない」

 いや、本当にそうだろうか?
 龍之介は不意に、自分に対して疑問を感じる。
 例えば目の前の人物が青葉以外の友人だったら、自分は滑らかなその肌を見詰めただろうか。触れてみたいと、思っただろうか。

(答えは――『否』だ)

 嗚呼、やっと分かった。
 龍之介は妙に晴れやかな気分で自分の変化を受け入れた。
 青葉は他の誰とも違う特別な存在。おそらく彼の笑顔が宝石のように眩しいと感じた瞬間から、心を奪われていたのだ。
 けれと龍之介は自覚した瞬間、その感情を隠した。
 衆道の心得など持ち合わせていない。それになりより、青葉を茨道へは引っ張り込めない。
 龍之介は己の恋情よりも青葉の友情を選んだのだ。

「龍之介君?」

 青葉の右手が目の前でヒラヒラ揺れる。急に黙りこくった龍之介を心配したのだろう。

「どうしたんだ、ボーとして。もしかして熱射病かい!?」
「いや、大丈夫。自己解決した」

 ふいっと顔を逸らす龍之介。

「そうか? でも、無理はしないでくれ」

 青葉の眉が切ないハの字に曲がる。

(嗚呼、キミを強く抱き締めて。その不安を戸惑いに変えたい)

 欲望の炎が龍之介の心をチリチリと焦がす。
 けれど駄目だ。青葉の純粋な友情を汚せない。
 龍之介は己の心を何度も叱咤して、飛び出してしまいそうな恋情を抑えた。

「ほら、もう行こう。シロウが一匹で詰まらなそうにしている」

 自分の持つ一番明るい声を出し、滝壺を指差す龍之介。
 真夏の陽光をキラキラと反射する水面。確かにシロウはその中心で、二人のやり取りを見詰めていた。
 龍之介も滝壺へと入り、ジャブジャブ進む。
 滝壺の水位は龍之介の予想よりも深く、胸の位置まで有った。

「ハァ」

 息を深く吸い込み、そのまま潜る。
 川魚が青々と茂る水草の間をスイスイと泳ぎ、水色の世界を魅力的に映す。

(気持ちいい)

 やはり自然の美は良い。
 心が落ち着く。
 早くこの景色を新しい画にしたいと、指が疼く。
 水草が生み出す気泡も、青く澄んだ水中も。すべてを描きたい。

(そうだ。俺が情熱を傾ける対象は……青葉じゃない)

 輪郭の歪んだ太陽はそれでも眩しく。水中を明るく照らす。
 叶わない恋に溺れている暇はない。
 龍之介には画の道が、青葉には弓道の道が有る。

「ぷはっ」

 水面から顔を出した龍之介は自然の空気を肺一杯に吸い込んだ。

「なぁ、青葉君。今度は俺の青春を応援してくれ」

 それだけで、幼く甘いこの恋は意味を持つから。



[*前へ][次へ#]

2/3ページ


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!