僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする
僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする8


「うっ……針の筵だ」

 少し手を伸ばせば皇慈の髪にも肌にも触れられる。この状況は正に、この世の楽園で人生の春だ。
 しかし今の燕は母親の言葉に怯える一人の息子。底冷えする冬の冷気が健康的な肌を容赦なく突き刺す。

『貴方、秋旅行に行ったきり帰ってないそうね。お兄ちゃんに聞いて、母さん驚いたわよ!』

 燕は5人兄弟の丁度真ん中、上と下に2人ずつ兄弟がいる。しかし現在は実家を出て長男の家に居候の身だった。
 今年で30歳になる長男は旅行会社に勤めていて、同じく旅行が趣味の燕と仲が良い。
 その兄には掻い摘んだ事情を説明していたのだが、終に母親へと情報が渡ってしまったようだ。
 思えば三ヶ月もの長い期間、兄はよく誤魔化してくれた。

『まったくねぇ。自分探しの旅なんて、お兄ちゃんだけで充分なのよ!』

 二人分のお説教が燕にぶつけられる。
 実は燕の兄も大学時代、『自分探しの旅へ出ます』と書置きを一枚残して、一年近くも音信不通に成っていたのだ。
 母親の立場で考えれば心配で気が気でないだろう。

「うん。それは正直、ごめん」

 燕の旅は普段と何も変わらないスタートだった。目的地だけ決めて、後は自由気ままな一人旅。
 けれど今、その旅は終わっている。

「でも僕は兄さんの真似をしてる訳じゃない。自分の意志で決めた、結果だから」

 偶然辿り着いた場所は居心地がとても良くて、離れ難い。幸せと悲しみが同居する場所だ。
 燕はふっと笑み、視線を落す。

「つばめ」

 すると皇慈の口がムニャムニャ動いた。
 一瞬、起きたかと思う燕。けれど瞼は閉じられたままで、安らかな寝息も聞こえている。
 それは無意識の寝言。
 鳥のツバメか人間の燕か、それとも両方を呼んでいるのか。夢を見ている皇慈の寝顔は幸せそうだ。

(嗚呼、幸せに蕩けそう)

 就寝用のブランケットを引き寄せて、皇慈の肩にかけ直す。
 歴史を重ねた洋館の暖房器具はレトロな暖炉のみだ。当然就寝前には炎を消すので、氷のような冷気の侵入を完全には防げない。
 燕が上半身を起こす事で出来た掛け布団の隙間もサッと塞ぐ。

『恋人が出来たのね。だから帰って来ないんでしょう』

 その時、油断していた燕の耳に母親の言葉が再び突き刺さる。本当に女の勘とは恐ろしい。
 幸せを噛み締めた矢先の肩がギクンと跳ねた。

「それは……僕ももう大人だし、それなりのお付き合いはあるさ」

 胸の奥がザワザワ騒ぐ。
 しかし燕はその場凌ぎの口車で逃げるという選択肢を選ばなかった。
 下手に誤魔化しても母親は騙されないだろう。それに何より、皇慈への感情を偽りたくなかったのだ。

『何言ってんの? どうせ見慣れない旅先の“女”にポーとなって、一時的に盛り上がってるだけでしょ』
「そんなんじゃない!」

 カカッと頬が熱くなる。声も荒げ、燕は反論を叫ぶ。
 駄々っ子を軽くあしらうような溜息。燕の純粋な愛情も、母親は『一時の熱病』程度にしか取り合っていない。

『何が違うの? 本当に本気なら、遠距離だってなんだって続けられるでしょう。燕はただ、その場の雰囲気に流されてるだけに思えるわ』
「選びたくても選べない場合もある。母さんは何も知らないだろう!」
『ええ。貴方が何も教えてくれないからね』

 どちらも引く気が無い言葉の応酬が飛び交う。
 燕は反抗期もあったかどうなのか分からない子供だった。親と喧嘩した記憶も薄く、歯向かうなど以ての外。
 けれど今は違う。
 冷静な判断を振り払い、感情的な言葉が滝のように溢れ出て来る。一方的に決めつける母親の正義が、こんなにも煩わしいと感じた事はない。
 一度でも離れれば、皇慈は燕の世界から跡形も無く消えてしまう。
 日常に潜む不安や無力な自分に対する葛藤も、何も知らないくせに。そんな憤りが迫り上がって、夜の闇に散らばる。

「こわい顔だ。元気で明るい君には似合わないよ」

 不意に、哀しそうな音が生まれた。
 燕が再び視線を落すよりも早く、白い腕が伸びる。そして驚く頬をフワリと包んだ。

「皇慈さ……何時から?」

 燕は思わず、ケータイを落としそうになる。グッスリ眠っていた皇慈が起きていたのだ。

「あっそうか。話し声、煩かったですよね?」

 母親へ向けていた息子の声を引っ込め、恋人の顔を皇慈へ見せる。
 けれど急いで整えた眉は困ったハの字で、声も所々詰まってしまう。燕は咄嗟の役者になれないタイプだ。

「今、切りますから」
『ちょっと待ちなさい、燕! その女に変わりなさいよ。文句の一つでも言ってやるわ!』

 状況を察した母親が騒ぐ。電波の向こう側でニョキリと生える角が見えるようだった。

「すみません。女性ではありませんが、お話は伺います」

 皇慈が徐に起き上がり、フワリと優しく微笑む。
 思わず見惚れる燕。その隙に、通話中のケータイが奪われた。燕の一番好きな表情で油断を誘うとは、何という策士だろうか。

『え? あっはい……んん?』

 燕が慌てて耳を欹てれば、母親も戸惑っていた。
 しかし皇慈は予想外の展開に混乱する若井母子を置き去りに話を進める。

「はじめまして、お母様。私は城金皇慈と申します」

 起き抜けの皇慈は気だるげで、その声音は性差を超えて色っぽい。蜜夜の証しを孕んでいる。
 けれど皇慈の声を初めて聞く母親は、其処まで頭が回らないだろう。

「はい。今は私の家に……いえ、一人暮らしの詰まらない生活でしたので、燕くんが来てからは本当に楽しくて――」

 暖かなベッドの中と寝室全体では気温差が有る。皇慈はパジャマを着ているけれど、ゆったりとした袖口は冷気の侵入も自由自在だ。
 燕はケータイを取り戻すよりも先に、ブランケットへ右手を伸ばす。そして皇慈の全身を包み込んだ。
 すると皇慈が話の隙間に「ありがとう」と囁き、燕の肩へもブランケットをかける。そのまま二人で包まって、ピッタリと引っ付く。
 愛しい恋人の体温は心の中まで温めてくれるから不思議だ。

「親御さんへはご挨拶が遅れて、申し訳ありません。ですが息子さんは遊び呆けていた訳ではなく、病弱な私の身体を心配して、傍に居てくれたのです」
『まぁ、そうなんですか?』
「ええ。燕くんはとても優しくて、良い子ですよ」

 訝しむ母親へ、皇慈はどんどん言葉を追加する。彼の口は土壇場の方が巧みに動く。燕とは逆のタイプだ。

『理由は分かりました。でも、納得は出来ません』
「はい。それは承知しています……私は彼に甘え過ぎた」

 皇慈が頷き、燕へケータイを返す。
 母親から、『燕に変わってちょうだい』と言われたのだ。

『燕。兎に角一度、帰ってきなさい』

 怖れていた、けれど予想通りの台詞。母親はそれを淡々と口にした。

「嫌だ。僕はずっと此処に居る」

 燕は自分の意志をキッパリと伝える。
 電波の向こう側の母親へ、そして皇慈の瞳を真っ直ぐ見詰めて。
 けれど皇慈の眉は哀しそうにハの字を作った。それが少しだけ寂しい。彼はきっと、燕とは違う未来を望んでいる。

『ハァ……馬鹿な子ね。母さん、そう簡単には諦めないわよ』

 母親も深い溜息を吐いて、電話を切った。ツーツーツーと、無機質な音が響く。
 燕も通話を終わらせて、ケータイを枕の横へ置いた。なんだかとても長い時間が経過したような気がする。

「皇慈さんも……僕が実家へ帰った方が良いと思ってますか?」

 燕は皇慈の背中へ腕を回して、肩口に額を押し付けた。その態度は一見、拗ねているだけに見える。が、燕の心は怯えていた。
 けれど問わずにはいられない。皇慈の考え――心の声を。

「私は燕との生活が楽しくて、手離したくない。……だから、困ってる」

 皇慈は自分が持つ有りっ丈の力を籠めて、燕を抱き締め返す。
 けれど痛くも苦しくもない。枝のように細い腕は思い通りの力も出せないのだ。

「君の事が本当に大切なら、私は『一時の旅の思い出』になるべきだ」

 恋愛には正解も不正解も無い。ただ選択肢と、結果があるだけだ。
 けれど皇慈は辛そうな声で言い切る。震える指先。ジクジクと痛む心の葛藤が垣間見える。

「燕を悲しませたくない。けれどすべての愛情を注いでも、私は君に幸福を贈れない」

 燕が選択肢を選び直すチャンスは今だ。
 平和で平凡な――ゆるやかな日常に戻るなら、今しかない。
 その腕をスルリと外して、『分かりました』と物分り良く頷くだけでいい。
 皇慈と燕の母親はそれを望んでいる。そして燕は、皇慈の願いを一つでも多く叶えてあげたい。

「分かり、ました。……実家へ帰ります」

 燕は抑揚なく呟き、皇慈の肩口から顔を上げた。
 すると皇慈が安堵と哀しみが入り混じる複雑な吐息を零す。燕が正しい選択肢を選んだと、思ったのだろう。

「でも、皇慈さんとは別れません」

 誰もが認めるハッピーエンド。それはきっと迎えられない。
 けれど燕が選んだ道は皇慈とでしか歩めない。その先の結末も覚悟の内だ。

「貴方も本当はそれを望んで、願っている」



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あきゅろす。
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