僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする
僕は何度でも、貴方と幸福な恋をする10


 翌朝、燕はクローゼットの奥からトラベルキャリーバッグを引っ張り出していた。
 移動に便利なホイールだけでなく、リュックやショルダーベルトも付いた優れ物。旅行の度に荷物を詰め込んでいたバッグは使用感が有り、燕の手に馴染む。
 そのバッグを床に下ろし、荷造りを開始する燕。暫くは着ない秋服も序でに取り出して、纏めて詰めてゆく。
 旅行前の荷造りは無意識にワクワクしていたものだが、今の燕にそれはない。ただただ機械的に両手を動かす。

「ふんふん。今朝のメニューは――じゃが芋のポタージュかな?」

 爽やかな朝の空気に交ざり、朝食の匂いが漂ってくる。
 皇慈は北欧系のハーフで、得意な料理も北欧風にアレンジした洋食が多い。
 最初の頃は随分とお洒落な食生活だと思っていたけれど、それは皇慈にとって『母の味』だった。
 時々はホカホカに炊けた白米が恋しくなるが、その場合は燕がキッチンに立つ。と言っても、燕が自信を持って作れる料理は殆どがアウトドア料理だ。

「ハァ〜。皇慈さんのエプロン姿も、暫く見られなくなるのか」

 心残りが長い溜息となって外へ飛び出る。
 愛妻を残して出張に出向くサラリーマンの心情が、理解出来る気がした。

「おや、意外な趣味を耳にしてしまった」

 その時突如として、皇慈の声が背後から聞こえて来る。

「うわぁ!?」

 燕は荷造りの手を止め、慌てて振り向く。
 薄く開いた扉の向こう側。窓から差し込む陽光に輝くブロンドが垣間見られる。
 どうやら皇慈は朝食の知らせに来たようだ。ネイビーの無地に大きなポケットが二つ付いたエプロンも、未だ着けている。

「ここは燕の希望に応えて、裸エプロン姿でも披露すべき場面だろうか?」

 ピラリ。皇慈の細い指先がエプロンの端を摘まみ、膝小僧の位置から太腿付近まで捲り上げる。
 一瞬の期待。正直な男の本能が、燕の視線を縫い付ける。
 しかし当たり前だが、現れるものは生肌ではなく、スラックスの生地だ。淡いベージュなのが、また憎い。

「からかわないで、下さい」

 燕は立ち上がり、自室の扉まで向かう。
 毎晩過ごしているのは皇慈の寝室だが、燕の部屋も一応用意されているのだ。

「今の僕は本気にしますよ」
「え……っ」

 皇慈の首筋に腕を回し、身体をピトリと密着させる。
 先に仕掛けたのは皇慈なのだから、燕は恋人の時間を存分楽しむ事にした。
 左足で皇慈の両足を割り開き、太腿を挿み込む。そしてエプロンに隠れる付け根付近を誘うように撫ぜる。

「あ、あんなに初々しかった燕が……朝から欲情するなんて」

 そう言いつつも、皇慈の腰は逃げる素振りも見せない。形だけの抵抗だ。

「皇慈さんが知らないだけで、心の中では『その上品な唇を甘美に塞ぎたい』とか思ってました」
「ン、ぁ」

 声のトーンを低く落とし、瞳の奥底に欲望の炎を燈す。
 エプロンに隠れる太腿が妙にエロティックで、興奮する。少し茶化すだけの積りだったが、止められない。
 皇慈が燕を甘やかすのも、拍車を掛ける。

「ハァ……っ。皇慈さん、今の欲望を現実にしてもいいですか?」
「駄目だ。……朝食が、冷めてしまう」

 壁際に皇慈を追い込み、無防備な首元へ唇を寄せる。そのまま舌全体でペロリと舐めれば、喉仏が小刻みに震えた。
 身長差的な問題で、燕は皇慈の唇を自由に奪えない。けれど首元の位置は丁度良く、其処への戯れは背伸びも不要だ。

「そんなにお時間は取らせません、から」
「もう、燕……アッ!」

 両手を背中へと移動させて、洋服の上からでも分かる細いラインを撫で下ろす。
 今日の衣装は鎖骨が眩しいVネックだ。生活感のあるエプロンとの組み合わせが実にそそる。
 鼻腔を擽る皇慈の匂いも甘く、落ち着くと同時に興奮する。特別な香水を付けている訳でもないのに不思議だ。

(やっぱり離れたくない。明日なんて、来なければいい)

 往生際悪く、皇慈の肩口に額を押し付ける。それは制御しきれない未練の欠片だ。

『ピーンポーン』

 その時、チャイムの音が洋館中に響く。

「ほら、お客さんだ」

 焦る皇慈の両手が燕の肩に乗り、そのまま引き離される。

「こんな朝早くに? 非常識ですね」

 燕は不満を隠そうともせず、来訪者が佇んで居るであろう方向へ睨みを飛ばす。
 時間は未だ、午前7時になったばかりだ。

「これで少しの我慢だな」
「んっ」

 皇慈が身を屈め、燕の唇へ自分のそれを押し当てる。不意討ちのキスだ。




「ありがとうございます。助かりました!」

 汚れた白衣を翻し、やつれた面持の青年が頭を下げる。
 丘の上の洋館は、まるで駆け込み寺のようにその門を叩く者が多い。
 今日の訪問者はスポンサーに突然見放された研究者で、朝一番の要件は資金援助。
 頼み事の最中に腹の音が鳴ってしまった青年へ、皇慈は朝食まで馳走し、彼の願いを受け入れた。
 真っ当な食事は一週間ぶりだと感謝を重ねる青年の涙を目にすれば、燕の不満も引っ込む。
 時間は違えど毎日繰り返される光景も、もう見納めだろう。臍を曲げてばかりはいられない。

「やはり笑顔はいいな。心が温かくなる」

 しかも青年は渡り鳥の研究をしているそうで、皇慈とも“ツバメの話題”で盛り上がっていた。

「そう言う皇慈さんの方が嬉しそうですよ。いつも」

 燕は食後のお茶を運び、皇慈へそっと手渡す。

「そうかな。あっ、困っている人の前では不謹慎だろうか? もっとキリッと引き締めた方が」

 そう言うと皇慈は頬を引き締め、形の良い眉を顔の中心へ寄せる。
 しかしそのキリッとした表情は10秒程の維持で元に戻った。作り慣れない表情に、筋肉が音を上げたのだろう。

「いえ、そんな事は。……むしろソレ目的で通って来る人が居ないか、心配なくらいで」

 皇慈は恋人の欲目を引いても魅力に溢れた人間だ。彼に『隠れファン』が存在していても、燕は驚かない。

「それは心配ないだろう。自分で言うのも何だが、私は“色々と面倒くさい”人間だ」

 ホワホワと蒸気の漂うティーカップに口を付け、皇慈がホッと気を緩める。
 どうやら燕の淹れたお茶は、今日も皇慈の舌と心を癒したようだ。

「誰が言ってるんですか? それ」

 燕は苦笑を浮かべながら椅子の背を引く。そして腰を下ろし、自分のカップに口を付けた。
 今日は寒いので蜂蜜入りのジンジャーティーにしてみたが、正解だった。胃の中までホカホカと温かくなる。

「例えば、子孫を残さなければならない立場なのにソレを怠ったり……な」

 皇慈が物憂げに呟き、琥珀色の紅茶へ視線を落とす。
 英国製のティーカップはエレガントなローズと美しい金彩が彩る本物のアンティークだ。
 それは皇慈によく似合う。まるで生まれる年代を間違えた優雅な貴族――いいや、王子様の方が正しいか。

「実は、親戚からお見合いを責付かれていてね。けれど一度も応じた事がない」
「それって、僕のせいですか?」

 思わず燕は身を乗り出す。
 そんな事情、今初めて知った。

「ああ、違う。燕との関係が原因ではないよ。もう何年も前からの問題だ」

 一人残された良家の子息。
 それが病弱な跡取りとなれば、周囲の大人達は『まだ丈夫な内に次の跡取となる子供を遺せ』と揃って囃し立てる。
 しかし皇慈本人の意思は問わず、紹介する相手は自分達の都合が最優先だ。

「私は、心から愛す人と同じ時間を過ごしたい。我儘だと理解していても、それだけは譲れなかった」

 皇慈が顔を上げ、燕の瞳を真っ直ぐ見詰める。その声音は力強く偽りや誤魔化しも感じられない。

「だから燕と出逢った時、本当に運命だと思ったんだよ」




 ◆◆◆    




 そのまた翌日、燕は駅に立っていた。
 長年の相棒であるランドナーも、光の移動速度には遠く及ばない。少しでも時間を無駄にしたくない燕は、帰省手段に新幹線を選んだのだ。

「思えば短いお付き合いでしたね。君の事は当分忘れませんよ、燕くん」

 今生の別れを惜しむように、天志の両手が胸の前で組まれる。
 慈悲深い神父の祈りは旅の安全。チクリと刺さる言葉の棘は相変わらずだが、彼なりに燕の身を案じていた。

「すぐに戻って来ますけどね」

 整備されたホームは広く、各々の目的地へ向かう乗客で犇めき合っている。
 燕の急な帰省報告は、世話になった人々を驚かせた。
 しかし見送りに駆け付ける者も多く、次々に渡されるお土産が、燕のトラベルキャリーバッグをパンパンに膨らませていた。

「天志さん、貴方へこんな事を言うのは変かも知れませんが……皇慈さんの事を宜しくお願いします」

 燕は深く頭を下げる。
 天空に流れる厚い雲は切れ目も見せず、冬の世界を灰色に染めたままだ。

「別に変では有りませんよ。それに皇慈くんは私の友人ですから、燕くんに言われるまでもなく気にしています」

 天志の右手が燕の肩へ伸び、顔を上げるように促す。
 件の皇慈は主治医である主と何やら話し込んでいて、離れた場所に居る燕の様子に気付いていない。



[*前へ][次へ#]

10/14ページ


あきゅろす。
[小説ナビ|小説大賞]
無料HPエムペ!