初恋は桜の中で:番外編
苦いビュッシュ・ド・ノエル/緋色×山吹
12月と云えば、クリスマス。
キラキラ光るイルミネーションが雑多な街中を飾り付け、どう見ても年若いサンタクロースがケーキ屋のチラシを配り回る。ビッグイベントだ。
「あー。ウザッてー」
仲睦まじい恋人同士がキャッキャッとはしゃぎながら横を通り過ぎる。年齢は十代後半の、初々しい高校生カップルだ。
可愛らしい彼女が「わたし今、ケーキ作りの練習してるんだぁ」なんて、甘ったるい言葉を彼氏の耳に吹き掛け、来るべきビッグイベントへの期待感を高めている。そんな彼女への“見返り”は流行のアクセサリーか、それとも彼氏の愛なのか。幸せムードに悪態を付く青年にとってはどうでもいい事だった。
そんな青年の名前は秋空緋色。彼をよく知る幼馴染は「煌々と燃え上がる炎の化身の様だ」と表現する、恋の迷い人だ。
そして緋色は現在、機嫌が頗る悪かった。
緋色には全世界の人間が羨む最高級の恋人が居るのだが、その相手が多忙な人間でここ数日些細な日常会話も交わせていないのだ。
クリスマスの予定も当然真っ白。恋人に仕事の予定が入っているかどうかも確認出来ていない。
夢見る乙女じゃ有るまいし、ロマンチックなクリスマスデートを望んでいる訳ではないけれど、心の靄は緋色の中で増殖を繰返す。曇った視界の中では厄介な迷宮を抜け出す道筋も見えやしなかった。
「嗚呼。忌々しい泥棒猫め。今日はどんな悪知恵を巡らせているのやら」
凛とした、けれど氷柱のように鋭い台詞が背中に突き刺さる。
聞き覚えの有り過ぎる声音に、緋色は青筋を立てて振り向いた。
「おいコラクソガキ。誰が泥棒猫だ」
予想通り、美少女と見紛う美少年が其処に居た。ヒトの心を見透かす瞳が、緋色を真直ぐ見上げている。
滑る雪肌も未だ未だ幼い少年の名前は雪白椿。
シンプルなダッフルコートを着こなす姿も豪奢な花を背負っている。末恐ろしい子供。現在の年齢は8歳だ。
「主人公」
椿は高校入学早々学園を牛耳る番長から喧嘩を売られ、その場の一撃で撃退した上、大学生に成った現在でも「アニキ」と慕われている緋色に微塵も恐れず口を開いた。
「ハァ!?」
開口一番喧嘩を売られた、と思った緋色は不機嫌を隠さず怒気を強める。けれど椿は一歩も引かない。
これが近所の小学校にノホホンと通う普通の子供だったら、母親に助けを求めて泣き出していてる場面にも関わらずだ。
「今、僕が読んでいる“小説の主人公”が言われた台詞だ。覚えたての言葉をむやみやたらと使いたがるのは、とても“子供らしい”行動だろう?」
椿が澄ました顔でサラリと告げる。その背後に小悪魔の羽が見える気がしたが、緋色は目の錯覚だろうと見過ごしてしまった。
これも椿の類稀なる演技力に騙された結果に成るのだろうか?
緋色がその疑問にぶち当たるのは、コレより何時間か先の話だけれども。
「どんな内容の本読んでんだよテメーは?」
現在は幼い子供の言い分を信じ切り、呆れたように脱力して見せた。それは緋色の余裕であり油断の表れだ。
椿の口角が一瞬、「ふふ」と勝者の笑みを浮かべる。
「理解力の無い者には見えない本だ」
緋色から見た椿は、ピヨピヨ煩い雛鳥だ。小さな臀部には半脱げの殻さえ付いて見える。
けれど椿の口調は妙に大人びて、子供特有の無垢な発言も少ない。現実を真っ直ぐ見据えている。
それでも緋色が“椿を取り巻く無慈悲な大人達”の様に白い目を向けないのは、椿以上に出来上がった子供を知っていたからだ。彼の持つ完璧さに比べたら、やはり椿は『雛鳥レベル』に感じてしまう。
これも一種の欲目だろうか。緋色の知る完全無欠の完璧人間とは、彼の恋人なのだ。
「あ? 分かんねーよ。裸の王様的なヤツか」
「どうだろうな。感じ方は人によると思う」
其処まで会話を進めて、緋色は微かな疑問を感じた。
今日の椿はやけに饒舌――いや、緋色と普通に話をしている。標準装備の敵愾心は何処へ忘れて来たのだろうか。と、訝しんだまま口を開く。
「おいガキ。お前、何で街中に独りで居る? 菜花か山吹はどうした」
「……ッ」
姉と兄の名前を出した途端、椿の喉は交通渋滞を引き起こした。
現在地は若者を対象とした店舗が立ち並ぶ大都会の繁華街。行き交う人間も多く、とても小学生の子供が散歩感覚で出歩く場所ではなかった。
「兄さんは仕事だ。貴方も知っているだろう」
「菜花は?」
「姉さんのスケジュールを聞き出してどうする気だ。まさか、兄さんに引き続いて毒牙にかけるつもりか?」
椿は険しい顔を作り、一歩後退した。
「お前……」
眉を潜める緋色。
「何か隠してやがるな」
そう確信した瞬間、椿の背後から煌く美少女が駆けて来るのが見える。菜花だ。
「椿く〜ん。お姉ちゃんから離れちゃ駄目じゃないの。怖い大人の人に攫われてしまうわよ」
右手を大きく振って、蜂蜜色の声を響かせる。彼女の登場に、街中の人間が一斉に色めく視線を注いだ。それも男女関係なく。
「おう、菜花。こんな生意気なクソガキより自分の心配しろや」
現在でも緋色が馴れ馴れしく声を掛けるや否や、嫉妬の嵐だ。
無論、本人に直接声を掛けられない弱者の嫉妬が緋色に敵う筈もないけれど、それで注意を怠る事はしない。菜花は緋色にとっても付き合いの長い相手なのだ。下手な虫が付く事を是としていない。
「あら、緋色さん。こんなに可愛い椿くんを前に信じられない事を言うのね。ミニスカサンタコスだって華麗に着こなせるのよ」
菜花は到着するや否や、椿を背後から抱き締めた。可愛らしいファーコートの袖口が椿の首筋を通って、胸元で交差する。
「僕は正常な感覚だと思う」
椿がされるがまま状態で呟く。その目は疲れ切っていた。
「ああ。強請ファッションショーから逃げて来たのか」
全ての事情を汲み取る緋色。
「怖そうな大人を丁度見かけてな」
「そりゃ一体誰の事だ。おいコラクソガキ」
拳を握り、「ぶん殴るぞ」と分かり易い怒気を形作る。
すると無関係のギャラリーが顔を青く染め、「ギャッ」と底冷えする悲鳴を上げた。全く意に介していない雪白姉弟(きょうだい)との対比が滑稽にさえ見える。
「まぁ椿くん。緋色さんと遊びたかったのね」
「違う」
「兄さんにも報告しなくっちゃ。きっと大喜びよ」
菜花は椿を抱えたまま、クルリと一回転した。その反動で優しい花の香りがフワリと匂い立つ。有り触れた柔軟剤の香りも、菜花が纏うと春の花園を思わせるから不思議だ。
関係の無いギャラリーも毒気をホワワンと抜かれて、顔色を温める。けれど緋色の関心は高々『通行人A』の変化に惹かれない。
緋色が菜花の発した単語の中で興味を惹かれた対象は唯一つだけだ。
「その山吹だがな」
改めて口を開く。
すると菜花は緋色に向き直り、椿の拘束を解いた。椿がやれやれと云った感じで姉との距離を開ける。
「予定はどうなってる?」
「クリスマスの? 残念だけれど、イヴも当日もお仕事よ。帰宅は深夜になるって言っていたわ」
「そうか。やっぱりな」
予想通りの応えに肩を竦める。
これで緋色のクリスマスは今年も灰色決定。味気ない平日の出来上がりだ。
「家では23日に前倒しパーティーしましょうかって、会議中なんだけど。ママと椿くんが乗り気じゃないの。困ったわよね」
23日も多忙な山吹のスケジュールは仕事で埋まっている。けれど帰宅時間は夕方と早いらしく、同じく多忙な水仙も帰宅時間が普段よりは早いらしい。
クリスマス・イヴイヴと云う微妙な日程には成ってしまうが、菜花が『23日しかない』と思い、計画を立てるのは無理からぬ事だった。
「僕は別に反対していない」
「賛成もしてくれないじゃないの。お姉ちゃんは椿くんが楽しんでくれなきゃ嫌だわ」
菜花がぷくー、と頬を膨らませる。けれども椿は眉一つとして動かさない。
(可愛げのねーガキ)
クリスマスくらい無邪気な子供らしく浮かれれば良いのに、と緋色は思う。
椿の態度はまるで、彼の父親が選ばないだろう道を敢えて選んでいる様にも見えてしまうから。言い知れぬ感情の炎が胸の奥をチリチリと焦がすのだ。
けれど椿は緋色が手を差し伸ばした所で振り払うだけだろう。だからせめて、椿が自ら“触れられる相手”が早く現れますように、と人知れず願うのだ。
誰あろう、山吹が安心するから。
「ねぇ、緋色さんも一緒にクリスマスケーキ作ってくれるわよね!」
「ハァ?」
突如話題を振られて、緋色は間の抜けた声を上げた。
「何でオレが。菓子作りは得意じゃねーぞ」
「あら心配ないわ。だって一番の隠し味は愛情だもの」
兄さんへの愛情は緋色さんが一番よね、と。菜花の瞳が物言わず伝えて来る。一応は人前なので、俳優である山吹へのスキャンダルに繋がり兼ねない言動は慎んだのだろう。
だから緋色には『何も気付いていません』と、話題を逸らす事も出来るのだ。
「お前その台詞……自分の母親にも言えんのか?」
水仙の噂は緋色も色々と知っている。
確か先週も岩のような強度のおにぎりと煮え滾るマグマを彷彿とさせる味噌汁を作っている姿が、料理の腕前を競い合うバラエティ番組で流れていた。
仕事人間である水仙の弱点を突くのは正直言って狡いカードでは有るが、二つ返事で“楽しいお菓子作り”を引き受ける程、緋色は可愛らしい少女趣味を持ち合わせていないのだ。
「ええ。例えオーブンが爆発しても良い思い出になるわ」
けれど菜花の笑顔は緋色のツッコミ如きでは崩れない。ふわふわしたものだ。
「……消し炭ケーキは食べたくない」
と、椿が何ともいえない苦い表情で呟く。
黒く焦げ臭い正体不明の物体が脳裏に浮かび、緋色も「うぉう」と喉を引き攣らせた。
「椿くんはグルメさんだものね。だからわたし、頬っぺた蕩けるスウィートケーキを作りたいの」
菜花は椿に再び抱き付いて、柔らかな頬を椿のそれにピトッとくっ付けた。
椿が溜息を吐く。その仕種が、白旗を上げたように見えた。
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