初恋は桜の中で:番外編
夏の日に


 ミーンミンミンミーン。
 蝉の羽音が木霊する。
 暑い、暑い。
 ある夏の日。

「――ぴちゃ、ぴちゃ……」

 太陽の光を遮るように閉められた、厚手のカーテン。
 夏特有の湿気を含んだ空気が、肌を撫ぜる。
 薄暗い部屋の中に、紅い色が浮かび上がる。血みたいに紅い、唇の色が。

「ゴクリ」

 飲み込んだ唾が、喉の奥に消えていく。
 極度の緊張に、心臓が早鐘を打つ。
 その先の物語を知りたい。
 けれど同時に、知りたくない、と。願ってしまう。気弱な心。

「男が、その水音に振り返る」

 井戸の底から響いているように、沈んだ。けれど、耳によく届く声音。
 真冬の雪のように冷たいそれ。が、夏の空気を凍らせる。

「するとそこには、水たまりが出来ているではないか。男は首を傾げた。つい先ほどまで、そこは乾いた土であったのに。と」

「ッ……!」

 誰かの息を飲む気配が、伝わる。
 それが伝染するように、心臓の音が大きくなる。ドキドキ。ドキドキ。冷たい汗が、背を滑る感覚にさえ、息を飲む。
 物語の語り手にも、それが伝わったのか、声の温度が下がった。
 氷点下にも感じる。ドロリとした、低い音。
 どうやってそんな声を作っているのか、疑問に思ってしまう。
 腹の底から響くような、不気味な音。
 普段の澄んだ中音域を、忘れてしまいそうになる。

「やっと、やっと、見つけた。――よくも私を、暗い井戸の底に……突き落としてくれたなぁあぁあぁあぁあ!!」

「わぁーーーー!!」
「きぁぁぁああああ!」

 二つの悲鳴が、同時に上がる。
 若い少年と少女のモノだ。
 ガタガタ、と。恐怖に震える少女は、彼女の兄に縋りつき。
 もう一人の少年は、彼の隣に座っていた漆黒に抱きついた。
 身体の底から湧き上がる、恐怖ゆへの行動だ。

「苦しい、です。……葉月君」

「ぁ、すまん。一夜」

 丁度頭に抱きついてしまい。漆黒の少年――一夜が息苦しそうにモゾモゾと動く。
 怪談話に悲鳴を上げてしまった事を恥じる。と、同時に、オレンジブラウン髪の少年――葉月夏陽は友人から腕を外した。

「お、お兄ちゃん……。今夜、一人でトイレに行けない、かも」

「大丈夫だよ、桜子ちゃん。ぼくが一緒にいてあげるから、ね」

 一方、兄に縋り付いた少女――桜子は、その腕の中に抱かれながら、頭を撫でられていた。
 よしよし、と。慰めてくれる兄――桜架の優しさに、桜子の恐怖心が薄らいでゆくのが分かる。

「ふふ。たわいもない」

 夏陽と桜子の反応に満足した。と、いうように、物語の語り手――雪白椿は薄い笑みを浮かべた。




「本当に、怖かったね」

 恐怖心など、微塵も感じていないように。桜架はフワリと微笑んだ。
 何処から何処までが、素なのか分かりづらい。
 のほほん、とした青年だ。

「怖い話は、得意ですか? 先輩」

「好んでは、見ないかな」

 後輩からの質問に、桜架は「ん〜」と顎に人差し指を当てる。
 夏の暑い時期に、涼を得る手段として恐怖≠選んだ経験は少ない。
 桜架が心霊番組や恐怖映画を見る時は、桜子に付き合う時だけ。
 怖い話が苦手なのに、見てしまい。夜眠れない。と、毎回泣く妹を慰める時だけだった。

「そうですか」

 チリン。
 風鈴が揺れる。
 怪談話は終わった。と、開け放たれた窓から流れ込む風が、部屋の空気を変えた。

「でも、君の話しは、怖かったと思うよ」

「それは、どうも」



 夏の風が抜ける。
 消えない恋心を、攫って行くように。






 それは、ほんの少しだけ

 未来のお話。





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あきゅろす。
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