初恋は桜の中で:番外編
君が届けてくれた2


「父さんは……お仕事が忙しくて。……俺、我儘いいません……」

 深く俯き、自分自身に言い聞かせる一夜。
 シクシクと軋む胸の痛み。それも気のせいだと、無理に抑え込む。
 深い深い。心の奥底に封印して、鍵をかける。
 何時もの事だ。大丈夫。大丈夫。

 けれど本当は気付いていた。
 千夜が実の息子を愛していない事も、行きずりの女性と愛の無い情事を重ねている事も。
 一夜はすべての感情を深く沈める。

 それから深呼吸を大きく二度繰り返して、ゆっくり顔を上げる。
 ホワホワ。
 ホットミルクから立ち上る湯気が最初に見えた。
 一夜は両手を伸ばし、カップを包み込む。
 温かい。
 温もりがジンワリと伝わってくる。
 白いミルク。白い湯気。白いカップ。
 白い白い白い。視界が白く染まる。

「雪白くんに、逢いたい」

 無意識の渇望だった。
 静寂が支配する闇夜に真白い雪が降る。
 椿は今、何をしているだろう。




 一夜は自室へ戻り、ケータイを手にした。椅子に腰かけ、背筋を正す。

『卯、月……?』

 驚いたように息を呑む椿の気配が電波に乗って伝わってくる。
 やはり急だっただろうか。一夜は改めて、クリスマスというビックイベントの重要性を考える。
 数秒の沈黙。
 一夜は椿の了承を遠慮深く取り付けた。そして要件を伝える。

「雪白くんの、声が、聞きたくなって」

 それは少し嘘だ。
 本当は椿本人と直接逢いたい。けれど今は夜中で、しかもクリスマス・イヴだ。

『ん。寂しくなった?』

 椿の声が一夜の心を優しく包み込む。
 勝手だけれど、一夜は椿と過ごす時間を自分へのクリスマス・プレゼントにした。

「雪白君は、何でもお見通しですね」
『ふふ。ただの勘だ。それ所か嬉し過ぎて、サンタクロースに感謝を伝えてしまった』

 椿は一体何処に居るのだろう。
 一夜が微かな疑問を感じていると、椿の微笑が鼓膜を揺らす。何だか一夜よりも嬉しそうだ。
 椿も彼の世界の中で、悲しみや孤独を感じていたのだろう。奇しくも一夜の電話がそれを救ったのだ。

『卯月、明日――良かったら、僕と……あ』

 所々詰まる声。電波状況が悪いのではなく、椿が緊張と闘っているのだ。
 つられてドキドキと高鳴る心臓。一夜は耳を欹て、椿の声に集中する。
 しかし震える声が、椿の本心を一夜へ伝える事はなかった。

『って』
『ワォ! こんな所に、超美人発見! どうしたの〜。人に酔っちゃった? ボクで良ければ、暇潰しの相手になるよ。可憐なお姫さま』

 若い男の声が割り込み、椿の声を掻き消す。
 一夜は椅子から立ち上がった。
 世界で一番大切な“親友”のピンチ。男は明らかに椿をナンパしている。
 居ても立っても居られない。
 一夜は勢いに任せてドアを開け、自室を飛び出した。月光も射さない暗い廊下を一心不乱に駆け抜ける。

「雪白くん、雪白くん、大丈夫ですか?」

 胸の奥が騒めく。
 変質者に襲われる椿のイメージが脳内を駆け巡る。

『ああ、何でもな』
『あれれ〜? もしかして、電話中だったぁ。でもその男より、ボクの方がキミを夢中に、さ・せ・て・あ・げ・る』

 馴れ馴れしい男の声が、また椿の声を遮る。
 椿は不機嫌を隠そうともせず、男を冷たくあしらう。しかし男が引く気配はない。
 途切れる会話。
 ペシッ。乾いた音が響く。身体の一部を叩いたような。
 募る不安。
 一夜は階段を一気に下り、一階の廊下も駆け抜ける。
 肌を刺す冷気が頬を滑り。息がハァハァと激しく弾む。静寂が支配する空間に、足音が響く。
 玄関に辿り着く頃には喉がカラカラに渇いていた。
 しかし一夜は構わず、ドアノブに手をかける。丁度その時、通話が再開された。

『ごめん、卯月。変な男に捉まってた』

 椿が散々な目に遭ったと息を吐く。
 彼は自分一人の力で危機を脱したのだ。

「いえ。ぁ、大丈夫でしたか?」

 全身から力が抜ける。
 一夜はドアノブから右手を離し、ケータイを持ち直す。
 椿が無事で一安心。ひ弱な壁は出番なく幕を閉じた。
 不審な音の正体は椿が肩を抱かれそうになり、男に反撃したものだそうで。本人に怪我は一ミリもないという。

『それよりも卯月。君の息が上がっているようだが、まさか駆け付ける気だったのか?』

 椿が遠く離れた場所に居るにも関わらず、一夜の現状を言い当てる。
 鋭すぎる勘の良さは物理的な距離を軽く飛び越えてしまったようだ。
 一夜は隠す意味もないかと、正直に打ち明ける。

「はい」
『僕の居場所も知らないのに、か?』

 指摘されて気付く。
 一夜は椿の現在地を知らない。
 第三者が居たという事は、彼の自宅ではない何処かなのだろう。

「無我夢中で……忘れていました」

 恥ずかしい。空回りの正義だ。

『ふふ。それでも僕は卯月の気持ちがとても嬉しい』
「雪白くんは……直ぐに俺を甘やかします」

 白い吐息が暗闇に溶ける。
 全身から炎が噴き出そうなほど暑い。
 一夜はきっと椿に敵わないのだ。

『義務的なフォローじゃない。本心だ』

 それから一夜は椿の事情を詳しく聞き、姉の迎えが来たという彼と通話を終えた。
 椿は姉の付き合いで、クリスマスパーティーに参加しているそうだ。

「?」

 何だろう。
 一夜はふと、世界の変化に気付く。
 開きかけた扉から光が射し込んでいる。月光とは少し違う。直感がそう告げた。
 好奇心に駆られて玄関から足を踏み出す。

「っ」

 冷たい北風が強く吹き抜ける。重い雲が夜空の中で動いている。
 煌めく星屑。丸く綺麗な月。夜に輝く数多の光が、瞳に流れ込む。
 一夜は息をするのも忘れて、遥かなる天空へ両手を伸ばした。
 ふわり。雪の結晶が掌へ舞い降りる。旅立つ雪雲の置き土産。今この瞬間が魅せる自然の幻想だ。

「雪白くんのおかげで観えました」

 感謝と共に氷点下の冷気を吸い込む。
 雪は直ぐに融けてしまったけれど、一夜の心は晴れやかだ。
 小さな偶然が重なった奇跡。それは椿が届けてくれた――最高のクリスマスプレゼント。

 この時の一夜は、純粋にそう思った。




 ◆◆◆




 そして年末。
 12月31日。午後11時30分。

 ウツラウツラ。
 椿は自宅のリビングで睡魔と闘っていた。普段はとっくに寝ている時間だ。

「つーばきくん」

 ツン。菜花の人差し指が椿の頬を楽しそうに突(つつ)く。
 しかし椿の睡魔は強敵で、瞼を何度も下ろそうとする。

「うふふ。頑張って起きてる椿くんも可愛いわ」
「ねーさん……やめて……」

 何とか返事を返す椿。けれどそれは寝言のようにボンヤリとした呟きになってしまう。
 暖房の効いた室内は暖かく、春の木漏れ日のように心地良い。睡魔の優秀な参謀役だ。
 多勢に無勢。徹夜経験もない椿は陥落寸前だ。
 しかし後数分の戦いだと、己を奮起させる。
 その時。

「ただいま」

 遅い帰宅を知らせる声音が玄関から届く。
 睡魔は一時撤退を決め込み、椿はパチリと瞼を開ける。そのまま立ち上がり、玄関へとパタパタ向かう。

「兄さん、お帰りなさい」

 人気俳優の山吹は年末まで多忙だ。
 今日も年末特番の生放送にゲスト出演していて、今の今までテレビ画面に映っていた。
 普段は就寝時間過ぎまで待っていないが、今日は一年の最終日。椿は折角だからと、起きていたのだ。
 山吹もそんな弟の姿に頬を緩める。

「おー。態々の出迎え、ご苦労だな」

 山吹の背後からライダースジャケットを羽織った紅髪の男が顔を出す。
 緋色だ。
 兄の恋人を認識した途端、椿の機嫌は氷点下まで下がる。

「貴方を出迎えた訳じゃありません」

 緋色からツンと顔を逸らす椿。それは殆ど条件反射だった。

「ケッ。年末まで生意気なクソガキだ。……ああそうか、忘れてたぜ。お前のツンツンした態度は年中無休24時間営業だったな!」

 緋色も不機嫌を隠さず、椿の棘に対抗する。
 ギスギスと淀む空気。
 山吹が「ああ、またか」と、改善される見込の無い対人関係に肩を落とす。

「椿。緋色はな、御節のお裾分けに来てくれたんだぞ」

 それでも山吹は挫けない。
 優しい兄の顔で椿と向かい合い、事情を説明する。
 緋色の料理の腕前は椿も認める所である。が、しかし。それはそれだ。

「どうせ目的は兄さんだろう?」
「ああ。それ以外の目的なんざ、一ミリもねーな」

 緋色が風呂敷に包まれた重箱を片手でプラプラ揺らす。
 中身が偏る事も厭わずに。
 本当に山吹はこんな男の何処が気に入ったのだろと、椿は人生最大の疑問を深める。

(一夜とは、大違いだ)

 一夜は椿の初恋相手であり、永遠の愛を捧げる相手だ。
 寡黙で慎ましやかで礼儀正しくて、それでいて椿が驚くような行動力も秘めている少年。
 ささくれ立つ椿の心は一夜の記憶一つで簡単に鎮まる。
 山吹と椿は仲の良い兄弟だけれど、好みのタイプは異なっていた。

「僕は兄さんと好みが似なくて、本当に良かったと思う」
「ああ? そりゃ遠回しにオレが嫌いだっつてんのか。クソガキ!」

 緋色の蟀谷が青筋を立てる。元から大きい声も荒げ、怒りが飛ぶ。

「まぁ。もうツンデレ対決が白熱しているわ」

 ふわふわ。菜花が独特の雰囲気を纏ったまま玄関に現れる。
 激しい火花が飛び交う状況にも臆せず、楽しそうに微笑みながら。

「菜花も、少しは二人の仲を取り持ってくれないか?」

 山吹が右手で額を押さえ、菜花に心労を訴える。
 しかし菜花は兄からの援助要請をやんわり断る。

「あら、わたしは今でも充分仲良しさんだと思うわ。緋色さんも椿くんも兄さんの事が大好きだもの」

 ねー、と。菜花は緋色と椿に明るく同意を求めた。

「誰が仲良しだ! 想像するだけでも虫唾が走るわ」
「姉さん、その論理には同意出来ない。大体僕は好き嫌いをハッキリ言うタイプだ」

 二人の声が重なる。緋色は怒鳴り、椿は冷静に自分の意見を返す。

「なんですか。新年早々騒がしい」

 厳しい女性の声音が凜と響く。
 新年の幕開けと共に顔を出した女性は雪白兄弟の母親――水仙だ。
 水仙の纏う空気はピンと張り詰め、氷点下の気温を呼び起こす。
 喧嘩の火種もすっかり鎮火状態だ。

「いえ。緋色が手製の御節を届けてくれて、ついつい時間も忘れて話し込んでしまいました」

 山吹が水仙の前へ一歩踏み出す。
 掻い摘んだ事情を説明し、場の空気を和らげるように微笑む。

「もう、年が明けていましたか?」
「ええ。5分ほど前に」

 朱色の梅が白地に花咲く。水仙は訪問着用の着物に身を包んでいた。
 山吹とは逆で、新年早々仕事に出掛けるのだ。
 水仙は山吹の横を通り過ぎ、玄関を静々と進む。そして緋色の前で立ち止まった。

「息子が結構なものを頂いたそうで、ありがとうございます」
「あ、や。まぁ、はい?」

 流石の緋色も横柄な態度を取れないようで、水仙の前で戸惑いを見せる。
 珍しい光景だ。

「母さん。折角の正月ですし、緋色をこのまま招待しても構いませんか?」

 山吹が透かさず要望を伝える。
 水仙は裏の意図に気付いた様子もなく、信頼する息子へ頷き返す。

「ええ。わたくしは三が日一杯仕事が入っているので、お客様を持て成せませんが。山吹さんはお正月をゆっくり楽しみなさい」

 そして水仙は菜花へも向き直り、同じような言葉を伝えた。
 椿へは何もない。ただ一瞬、顔色を窺う素振りを見せただけで、終わった。




「――冷たい」

 椿は自室へと戻り、力なくベッドへ突っ伏す。
 就寝用のブランケット。清潔なシーツ。使い馴染んだ枕。
 冷え切った室温は寝具も氷のように冷やしていた。
 心地良いとは呼べない寝床。ただでさえ低い椿の体温では温まるまで時間がかかるだろう。

『雪白君の手……こんなにも冷えて』

 ふわりと、一夜の記憶が蘇る。

「一夜……に、逢いたいな」

 無意識の渇望だった。



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