初恋は桜の中で:番外編
きみとのスイート・バレンタイン/一夜×椿


 2月14日。聖・バレンタインデー。

『ピ、ピピピピ』

 世間の空気がソワソワと浮き足立つ。チョコレート色の甘い一日。

「――……ん、」

 此処に、生まれてこの方。バレンタインとは無縁に過して来た少年がいる。

『ピ、カチャッ』
「……」

 今日も何時ものように目覚まし時計を止め、無言のままベッドを抜け出す。
 昨日も今日も変わらない一日。普段通りの日常。バレンタインという認識は有るが、自分とは関係のない行事。
 起きたら洗面所へ向かい、顔を洗う。漆黒色の髪は愛しい恋人が気に入っているので丁寧に整えるが、それもバレンタインだからと気合を入れる事もない。
 心に咲いているのは、一輪の花だけだ。

「……」

 そんな少年――卯月一夜の日常に、衝撃が訪れようとしていた。




『ぷるるる』
「……」

 丁度洗顔を済ませた所で、ケータイの呼び出し音がなる。
 一夜は静々と近付き、通話ボタンを押した。時間は午前6時過ぎ。こんな早朝に誰だろうか。

「――はい。卯月です」
『朝早くにすまない。今、いいか?』
「ッ! はい。大丈夫です」

 まだぼんやりと、夢の世界を引きずっていた一夜の脳が一瞬で覚める。
 電話を掛けてきたのは一夜の愛しい恋人。椿だったのだ。澄んだ中音域の音色に心がほわほわとあたたかくなる。

『突然だが、君に渡したいものがある』
「ぇ……?」

 真剣な椿の口調。一夜は身を正し、耳を欹てた。

『早朝の訪問を許してほしい』

 その言葉と同時に玄関の呼び鈴が鳴る。訪ねて来たのは勿論、椿だ。




 ◆◆◆




「僕が朝食を用意する。一夜はその間に着替えてきてくれ」

 勝手知ったる恋人の家。突然訪ねて来た椿は、現在キッチンに立っている。
 ダイニングと一続きのカウンターキッチン。そこに椿が花を添える姿を、一夜は何度か目にしていた。けれどそれは私服姿で、制服姿というのは珍しい光景だ。

「はい、」

 一夜は思わず、ほわ〜と見惚れる。が、直に首を振った。左右にふるふると揺れる動作に、漆黒の髪もサラサラ揺れる。

「僕の目的は、君に制服エプロン姿を見せる事じゃないぞ」
「ぁ……ごめんなさい」

 当然それは椿の目に留まり、やんわりと注意されてしまった。

「ふふ。そんなに魅たいのなら、身支度を整えた後にしろ」
「……ッ!」

 椿は一夜の脳内を見抜いたように、小悪魔の微笑を咲かせる。
 一夜の中に潜む羞恥心と期待感が両足を急かせ、自室へと向かわせた。




「……――っ」

 一夜は自室の扉をパタリと閉め。パジャマを脱ぐ。Yシャツの袖に腕を通し、制服へと着替える。
 真冬の空気は冷えていて、背筋がブルリと震えた。

(椿)

 一夜は椿の姿を脳裏に浮かばせる。
 ブレザータイプの制服。その上着を脱ぎ、エプロンを付ける横顔。肩口で揺れるミディアムストレートの艶髪を一つに纏め、結ぶ指の軽やかな動き。
 それを一瞬思い出すだけでも、一夜の頬はほわりと温かくなる。椿の纏う雰囲気は冷涼に咲き誇る氷華のようであるのに、恋の魔法とは不思議だ。




 ◆◆◆




「――さて、本題だ」

 一夜は椿手製の朝食を食べ終え。幸の味にホッコリしていた。
 その耳に、椿の改まった声が届く。一夜は頬を引き締め、姿勢をピシリと正した。

「今までチョコレートを貰った経験は有るか?」
「バレンタインの、ですか?」

 今日――2月14日にその質問をされたのだから、当然バレンタインの事を問われているのだろう。
 一夜は疑問を返しながらも、椿の心を探った。

「ああ。そうだ」
「一度もありません」

 椿が頷く。予想が当たったのだ。一夜は正直な過去の記憶を話す。
 一夜のバレンタイン事情は、毎年変わらぬ日常の一日。チョコレートどころか、異性と言葉を交わした経験もない。

「義理もか?」
「はい」

 椿がムスッと不機嫌を浮かばせる。一夜を無視した人間を瞬時に嫌ったのだ。

「そうか、間に合ったな」
「?」

 けれどそれも思い直し、椿はスクールバックに手を伸ばした。中から、二つの箱が取り出される。
 どちらも綺麗にラッピングされ、リボンが結ばれていた。

「片方は姉さんからの……ぎ、『義弟チョコ』だ。……そうだ」
「そう、……ですか」

 菜花から贈られた、一夜へのバレンタイン・チョコレート。それに付属された冠名に、一夜と椿は同時に照れる。

「それで、だな」

 椿は気持ちを切り替えるように言葉を続けた。けれどその頬は朱に染まり、隠し切れない気恥ずかしさを教えている。

「もう一つは僕からの、で――ッ。こんな見た目でも、買うのは恥ずかしかったんだぞ」
「……ご苦労をお掛けしました」

 早口で捲くし立て。椿は一夜にバレンタイン・チョコを渡した。
 椿は中性的で美しい容貌の持主。だがそれでも、女性客に入り交じり。バレンタイン・チョコを購入するという行為は相当の羞恥心を伴ったそうで。その頬は完熟した紅玉のように真っ赤に染まっていた。

(っ、……)

 一夜の目には、椿の方がチョコレートよりも甘そうに見える。いや実際に、椿の唇はどんなに甘く蕩ける砂糖菓子よりも甘美な極上品だ。
 そして一夜は、それを味わえる唯一の恋人。

「いや。君の初チョコ記念を見ず知らずの人間に奪われるよりは――んぅン」

 一夜は衝動を止められなかった。椿の言葉を飲み込み、甘美な唇を奪う。

「いち、……ン、ァ……ふ」
「椿……ッ、ハ――んっ」

 椿は少しの抵抗も見せず。一夜の口付けを受け入れた。マシュマロのように柔らかい唇が、ゆるりと開かれる。
 一夜の舌は椿の口内に招かれ、柔らかなそれとダンスを踊った。甘い熱の旋律が、理性の鎖に手を掛ける。

「ア、ん――そこは……ハァ、駄目」

 羞恥に染まる耳朶。細い首筋。形の良い鎖骨。一夜は椿の躰にキスの雨を降らせてゆく。
 しかし、可愛い粒の隠れる胸元に唇を寄せた瞬間。ソレを止められてしまった。
 甘い時間はもうお終いと、椿が胸元を隠す。

「未だ、朝だろう」

 一夜の目の前で、途中まで外したボタンが留められてゆく。名残惜しさは残るが、椿の意見は当然だ。

「今はキスまで。な、」
「つ……ん」

 一夜は大人しく身を引いた。その唇にやわらかな愛情が届く。

「椿……っ」
「ふふ」

 ちゅっと音を立て。椿の唇が離れる。一夜はまた、妖艶な小悪魔の羽に弄ばれたのだ。

「君は不意打ちに弱いな」

 今度は一夜が頬を紅玉に染める。椿は満足そうに微笑だ。

「思わず、愛でたくなる可愛らしさだ」
「ぇ……!」

 気恥ずかしさに肩をプルプルさせていた一夜。子うさぎの可愛らしさを連想させるソレに、椿は頬を緩ませる。
 けれどそれは椿の感想で。一夜は自分に向けられた、『可愛い』という単語に衝撃を受けた。
 誰にでも可愛いを連呼する聖祈ならば兎も角。恋人である椿には、『格好良い』と言われたい。それが一夜の正直な感情。
 自分の魅力に自信はないけれど。世界で唯一の椿には『魅力的な相手』と思われたいのだ。

(俺は、椿自慢の恋人になりたい)

 一夜は秘そりと決意を固める。一ヵ月後のホワイトデー。椿を優雅にエスコートする紳士になるのだ。

「どうした?」
「いえ、別に」
「ふふ。キリッとした眉が、格好良い」
「ッ!」

 決意を固めた傍から、椿が望みの言葉を口にする。一体どこまで、一夜の心は見抜かれているのだろう。

「僕はそのままの一夜を愛してる。背伸びは不要だぞ?」

 それに、と。椿は一夜の前に、バレンタイン・チョコが収められた菓子箱を差し出した。
 夜を敷き詰めたような漆黒の包装紙に、瑠璃色のリボンが花を添えている。シックで落ち着いた色合い。
 言われずとも分かる。それは一夜をイメージしたラッピングだ。

「今は、バレンタインを楽しもう。僕は未だ、チョコレートの感想も聞いていない」
「ぁ」

 言われて気付く。
 椿が勇気を振り絞って購入したバレンタイン・チョコレート。一夜はそれを、一口も食していなかったのだ。

「ふふ。チョコの口移しまでなら、対応可能だ」

 白い椿の指先が、丹花の唇を誘うようになぞる。
 キス以上は禁止。それは裏を返せば、キスは堪能しても良い、と。伝えられていたのだ。
 早朝の訪問理由も、自分との時間を多く取るため。一夜はそれが分かり、抑えきれない愛しさを感じた。

「椿――!」
「ァン……! もう、チョコは僕が食べさせる側だ」
「んんっ」
「ちゅっ。……一夜、美味しい?」
「甘い、です」




 バレンタインに縁の無かった少年は、初めて過すチョコレート色の一日に――やっぱり翻弄されていた。




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あきゅろす。
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