初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心15


 勝気な瞳が桜雪を見上げる。

「アイツもふわふわしてるからな」

 緋色は何の気なしに言って、肩口から手提げ鞄を下ろした。手首を目線の高さに合わせ、腕時計で時間を確認する。

「あ、塾?」
「そうだよ。面倒くせーけどな」
「送っていこうか?」
「ハァ? 何でだよ。うざってーな」

 緋色が歩き出す。桜雪も後を追い掛けた。
 子供と大人の歩幅は直ぐに詰まって、桜雪が横に並ぶと、緋色は不満そうな顔をした。

「緋色君とお話がしたいから。じゃ、ダメかな」
「オレにはねーよ」

 緋色が歩くスピードを上げる。
 けれど結果は同じ。桜雪は緋色よりも少ない歩幅で彼に追い付いた。

「山吹君は学校で元気にしてる?」
「なんだよ。その息子との話題が思い付かない父親みたいな質問は……」
「いや。父親顔をした積りはないんだけど」

 否定の意味で右手を横に振る。けれどそれは桜雪の本心ではない。
 許されるなら――いや、その先の願いは贅沢過ぎる。
 桜雪は心の奥底に、独り善がりな願望を人知れず押し込めた。

「ああ。アンタじゃ逆立ちしても見えねーもんな。いいトコなよっちい兄ちゃんだぜ」

 緋色が「ニシシ」と意地悪な笑みを浮かべながら、桜雪の中性的な容姿を茶化す。

「そうだね。見えないよね……」

 痛い。胸が軋む。
 けれど緋色に、悪意は一ミリもない。彼は桜雪と水仙の関係など微塵も知らない“純粋な子供”なのだ。
 今だとて何だかんだ文句を言いつつも、桜雪との会話を完全には拒否しない。それは緋色の中で、桜雪との関わりが苦ではない証拠だ。
 桜雪は心の中で頭を振り、表面的には自嘲雑じりの苦笑を浮かべた。
 緋色に不信感を与えてはいけない。何でもない世間話だと、信じ込ませなければ成らない。桜雪は秘密を抱える大人なのだから。出来る筈だ。
 しかし――

「何だよ。やっぱ気にしてんのか?」
「へ!? なな、何が?」

 心臓が飛び出そうな程驚く。
 強く意識すればする程、何でもない質問の奥に真実を探ろうとする別人の顔が見えてしまうのだ。

「急にどうした? すっとんきょな声出して」
「うん。ええっと……あ、僕より緋色君の話を聞きたいなって」

 慌てて取り繕うも、緋色は桜雪の頬を伝う冷や汗を見逃さなかった。
 コイツ、何か隠してやがるな。
 そんな視線が桜雪の全身へ絡み付く。

「そもそもアンタ、何で“山吹の母ちゃん”と仲良いんだよ」

 ――答えられなかった。
 桜雪の声は、表情は、一瞬で時の流れから置き去りにされてしまった。

「……まぁ、オレには関係ねーコトだけどな」

 緋色が走り出す。
 もう追い駆ける気力の無い桜雪は緋色の背中が遠くなって行くのを目だけで追った。

「でも、もし。山吹を泣かせる様な事をしたら、オレはアンタを許さない」

 嗚呼。それは桜雪も同じだ。
 緋色が立ち止り、桜雪の方向へ振り向く。強い意志を宿した瞳に見据えられ、桜雪の時間は再び流れ始めた。

「うん……。許さないでくれる?」

 例え山吹本人が、桜雪に非はない、と庇い立てしても。

「山吹君の事を本当に守れるのは、君だと思うから」

 だからどうか、山吹の、菜花の、水仙の幸福を共に祈ってほしい。
 まぁ、緋色は頼まれずとも祈ってくれる『男』だけれど。

「っなんだよ、ソレ。アンタも男なら、『俺が幸せにしてやるぜ!』くらい、叫んでみろよ!」

 緋色の眉毛が吊り上る。
 予想はしていたけれど、緋色は桜雪の応えに満足していない様だ。

「ごめんね。それを言える『良い男』じゃなくて。でも、これが僕だから」

 分かり易い道筋が目の前に現れても、直前で足踏みしてしまう。

「だから緋色君は、自信を持って言い切れる『良い男』のままでいてね。山吹君の為に、自分の為に」
「アンタのそう云うトコロ、ホントムカつくな」
「うん……。自分でも、そう思うよ」




 ◆◆◆



 一方、その頃。

「そうかしら? 菜花は思わなかったけれど」

 菜花は小学校で出来た女友達と仲良くお喋りしていた。場所は女友達の家で、テーブルの上に広げられたお菓子の数々が甘い匂いを発している。

「えー? そんな事ないよ」
「そうそう。男子みんな、菜花ちゃんの事見てるじゃない。きっと好きなのよ」
「菜花ちゃんはどうなの。気になる男子いないの?」
「んー。特にはいないかな?」

 恋の花が咲いたのは突然で、菜花の脳内には誰の顔も浮かばない。

「だって、ねー。菜花ちゃんはお兄さんが最高にカッコイイもの。クラスの男子なんて取るに足らない小石と同じよ」
「あー。なるほど」
「それならアタシも納得だわ。雪白山吹と比べたら、他の男なんて。ねー」
「ねー。あ〜あ。ワタシのお兄ちゃんもあんなにカッコ良かったらなぁ」

 キャッキャッ盛り上がる少女達。山吹を思い浮かべる瞳は、皆一様にハートマークだ。
 これは「会ってみたいなぁ」とお強請りされるのも、時間の問題だろう。今までの会話さえ、前振りの様に思える。

「ねぇ、山吹って普段何やってるの?」

 来た。
 見え見えの誘導術に、菜花は内心、彼女達の目的は自分との友情ではなく兄・山吹へと繋がる『チケットの入手』なのだと悟った。今までの『友達』が、そうであった様に。

「兄さんはね、お仕事と習い事で忙しいの。だから菜花も、朝と夜の短い時間しか会えないのよ」

 何十回と繰り返した台詞を笑顔で返す。

「あ、そうなんだ」
「やっぱり忙しいんだね」

 肩透かしを食らった少女達は明らかに気の抜けた声で「何だ。つまんなぁ〜い」と、揃って続けた。その反応も、菜花は当然見慣れている。

「それより、算数の宿題やった? アタシ、分かんないトコロがあってさー」
「あー……うん。ワタシはもうやっちゃった。教えてあげよっか」
「ホント? 助かるー」

 何事も無かったかのように話題を変える少女達。菜花も彼女達の輪に加わり、白紙状態のノートを覗き込んだ。
 彼女達と過ごす時間はそれなりに楽しいけれど、それなりに窮屈だ。

(桜雪さんと一緒に居る方が、菜花はずっとずっと楽しくて嬉しいわ)

 この感情の名前は何だろう?
 ふわふわと温かくて。遠い昔に無くしてしまった何かを思い起こさせる。
 不思議。不思議だ。菜花は実父親の顔をよく覚えていないのに、記憶の奥を探ると桜雪の顔が浮かんでくる。
 桜雪と出会う以前の昔。もしもその場所に桜雪が居たら、彼は優しく微笑んでくれただろうか。実父とは紡げなかった思い出を、桜雪なら幸福の糸で紡いでくれただろうか。
 なんて。思ってしまう。

(ママと兄さんが居れば、菜花は満足だったのに)

 現在(いま)は桜雪も居ないと物足りない。
 とても我儘な願いを、口に出してしまいそうになる。

(ダメな子ね)

 水仙も桜雪も、困るだけなのに。菜花はふとした瞬間にも想像してしまう。
 家族“四人”で歩む未来はどんな光景なのだろうか、と。




 それから暫くして、菜花は女友達の家を出た。
 外の世界は傾きかけた陽の光が長い影を作り、一日中元気に飛び回っていた小鳥達も巣へ帰ってく行く所だった。

「あら、誰かしら?」

 菜花はピタリと足を止めた。雪白家の門の前に、人が立っていたのだ。
 軽そうなダンボール箱を両手で抱えた、年若い男性。キャップを目深く被っている為顔はよく見えないが、菜花は間違いなく初対面の人物だ。

(お客さん? でも)

 何だか、怪しい。
 菜花は電柱の陰にサッと隠れた。
 男は門の隙間を覗いたり背伸びをしたりして、雪白家の様子を明らかに探っているのだ。
 泥棒。と、最初は思ったけれど、本当に泥棒なら、人目に付く時間帯は避けるものではないだろうか。
 だとすると、次の可能性はパパラッチだ。
 水仙が目的でも山吹が目的でも、プライベート写真が撮れれば買い取りを申し出る週刊誌は絶対に存在する。

(菜花がママと兄さんを守らなくちゃ!)

 意気込む菜花。
 男性の正体がパパラッチと確定した訳ではないけれど、現時点で最も高い可能性を胸に抱き、電柱の陰から抜け出す。

「あの、どちら様ですか?」

 男性の背後に近付き、無害な子供の顔で質問する。
 菜花も水仙の子供。警戒心の盾を相手に気付かせない位の演技力は持ち合わせている。

「ふへ!?」

 男性の両肩がビクリと跳ね上がり、動揺を含んだ叫び声を上げる。

「ふへさん? 変わったお名前ね」

 可笑しそうに言いながら、菜花は男性の前へ回り込んだ。顔を確認する為に目を凝らす。

「いっ……いや、その……」

 平凡。と、云うのだろうか?
 道で擦れ違っても印象に残らない様な、取り立てた毒も持っていない様な、何処にでも居そうな男。年齢は二十歳過ぎ位に見える。

「いい、今のは驚いて……つい」

 震える唇。頬を伝う冷や汗。

(この人……違うわ)

 菜花の直感が告げる。
 彼はパパラッチでも泥棒でもない。全く別の目的でこの場所に立っているのだ、と。
 では、男性の目的とは何だろうか?
 菜花は再び、観察を始めた。

「だっ……から、オレは怪しい者じゃなくて」

 しどろもどろの言葉。落ち着きなく泳ぐ瞳。
 何より菜花が訝しんだのは、男性が纏う“色”だ。ドロリと濁った暗黒色は不気味で、心の奥底に溜まったヘドロを垣間見ている様だった。金儲けが目的のパパラッチや泥棒なんて生温い。人間の魂を突き動かす強い執着を感じる。
 そしてそれは警戒音となって、菜花の脳内に響き渡った。

(ダメよ、ダメ。この人の話を聞いちゃダメよ、菜花)

 心の中で思っても、菜花の両手は耳を塞げない。
 男の右手がダンボールから離れて、菜花の左手首を捕まえたからだ。

「君のお母さんに会いに来たんだよ。雪白菜花ちゃん」

 嗚呼――運命が軋む、音がする。



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あきゅろす。
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