初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心14


 そして昼休みは終わり、一同はスタジオへ戻った。

「モデルの顔は写さなくていい」

 千夜が淡々と指示を出す。彼は微動だにせず、射抜くような眼差しを商品へ向けていた。
 桜雪の顔はもう、千夜のフィルターから完全に外れているだろう。

「え? でも……」

 亀山が何か言いたげに口を開く。
 けれど千夜を包む支配者のオーラが、弱者の口答えを微塵も許さない。

「何だ?」
「何でも、ござっござっ……ございません」

 亀山の背筋が蛇に睨まれた蛙の様に竦み上がる。喉も何度か詰まった。
 それを遠目に見ていたクミが『カメちゃんの意気地なし』と、唇だけを動かす。明松も苦笑いを浮かべた。

「照明は薄暗く。無機質な感じを強めに」

 今度は明松へ指示が飛ぶ。千夜はその間も、商品から視線を外さない。真剣そのものだ。

「はい」

 明松が手許のキーボードをテキパキ操作する。するとスタジオの照明は暗く落ち、宵闇の静寂を作った。
 アロマキャンドルの柔らかい光が幻想的に揺れる。

(良い香り。満開の薔薇園を散歩しているみたいだ)

 桜雪は鼻先に漂うアロマの香りをスゥと吸い込んだ。ダマスクローズの良質な香りが肺を満たす。
 けれどアロマキャンドルは商品ではなく、あくまでも演出の品。主役はソレを収める吊り下げタイプのキャンドルホルダーだ。
 硝子製のホルダーは丸型で、それが15個ほど簡易天井から垂れ下がっている。天井とホルダーを繋ぐ鎖の長さは一見バラバラ。けれどキャンドルの光がより映える絶妙な位置関係に、一つ一つが調節されていた。全て、千夜の指示によって。
 桜雪はキャンドルの森をゆっくりと歩み、徐に腕を伸ばした。ボルダ―の一つを指先でなぞる。
 丁度目線の位置。
 揺らぐ炎のオレンジ色に、迷う心の影が包み込まれる様な、焙り出される様な、不思議な感覚を覚える。
 その瞬間、亀山がカメラのシャッターを切った。

 何千何万の写真を撮っても、実際に使用されるのは選び抜かれた数枚だ。クライアントが納得しなければ、撮影時間もその分伸びる。

 テーブルやソファー。キャンドルホルダーの後も次々と撮影を熟し、桜雪は一息ついた。

「大丈夫でしょうか?」

 差し出されたコーヒーを両手で受け取り、視線をスタジオの隅へ滑らせる。其処には亀山と、千夜が居た。
 二人でパソコン画面を覗き込んでいる。撮影したばかりの写真をチェックしているのだ。
 もしも千夜がリテイク判断を下せば、撮影はやり直し。他のスタッフも緊張の面持ちで二人を見ていた。

「まぁ。カメやんも何だかんだで腕は有る方だし、徹夜コースには成んないッしょ」

 一度のリテイクは前提なのか。スタッフは一人として仕事の気を緩めていない。桜雪も深夜の帰宅を覚悟した。

「はへ? えぇええええ!?」

 亀山が突如として立ち上がり、両目をひん剥いて叫ぶ。スタジオを満たす空気もビリビリ震えた。相当の動揺が見て取れる。

「……」

 それでも千夜は表情を崩さず、冷静なままワークチェアに座っている。
 ただ一言、「声を控えろ」と小さな注意を付足して。

「な、何か問題でも有ったんでしょうか?」

 桜雪の脳裏に自分の失態が駆け巡る。
 千夜の要望通り、ただの添え物として振る舞った積りでいるけれど、何分桜雪の演技力は無に等しい。千夜に不満が出たとしたら、120%自分の力量の無さだと思ったのだ。

「どうしよう。わたし、栄養ドリンクと胃薬買に行かなきゃ」

 クミの顔色が青く染まる。

「えっ。それ一緒に飲んで大丈夫なの?」

 引き止める女性スタッフの顔色も悪い。

「胃薬はカメちゃんによ。またトイレに籠られたら大変だもの」
「でも胃薬の前に栄養ドリンクがぶ飲みしたら、どうすんの? それこそトイレの住人再来よ」
「それは一緒に見せない様にして……。兎に角、カメちゃんのストレスに弱い胃が限界を訴える前に用意しなきゃ」

 わたわた慌てる女性人。男性スタッフも思い思いに覚悟を決めて行く。
 千夜はその光景を横目に一切口を挟まず、無言のままスタジオを出て行った。
 後に残された亀山がボケーと突っ立っている。

「あ、れ……帰っちゃった?」

 大量の疑問符が同時に上がる。

「あ……うん」

 無数の視線に気付いた亀山がカクカクと錆びた動作で振り向く。

「一発OK出た。今日は予定通りに帰れるよ」

 力の抜けた声で説明する。千夜から直接聞いた彼自身でさえも、まだ信じられない様子だったが。

「何ぃいいいい!? 天変地異の前触れが訪れたと云うのかぁあああああああ!?」
「明日は大雪……それとも宇宙人の来襲」

 男性スタッフ達が一斉に騒ぎ出す。心の地響きがズゴゴゴゴと響いてきそうだった。

「もう落ち着いてよ。単に写真の出来が合格ラインだったんでしょ」
「そうよ。なんで素直に喜べないの?」

 女性スタッフが顔を見合わせ「男ってやあねー」と、頷き合う。

「だってクミちゃん! 俺キョウ怒られナカッタ」

 何故か片言で説明する亀山。動揺がまだ抜け切っていない様だ。
 自分で両頬をパチンと叩き、夢ではない事まで確認する。
 それから暫く騒いで、スタッフ達は各々帰り支度を始めた。




 ――10分後。

 桜雪は徐に空を見上げた。街路樹を揺らす初夏の微風が桜雪の髪もサラサラと揺らす。
 ビル群犇めく街並みは空が狭く、折角の夕焼けもアンバランスに遮断されていた。
 それを『無機質な風景』と呼ぶなら、正解だろう。

「ピチチチ」

 ふと、鳴き声が聞こえて来る。桜雪は惹かれるまま、意識を街路樹に向けた。
 小鳥が二羽、寄り添うように留まっている。
 番(夫婦)だろうか。兄妹(きょうだい)だろうか。何方にしても、桜雪の心はホッコリした。

「やあ、こんにちは。仲良しだね」

 ふわりと微笑み、小鳥に話し掛ける。
 大凡の人間が成長と共に『恥ずかしい』と感じる行動でも、桜雪にとっては日常の一コマだった。

「ピチチチ」

 小鳥も逃げ出す事なく、桜雪へ囀り返す。二羽の仲を自慢する様に両翼を広げる姿がとても微笑ましい。
 もう無機質では無くなった風景を前に、桜雪は亀山の言葉を思い出す。

『俺に分かるのは、写真を撮った奴が“惚れてる”って事くらいだし』

 その相手が目の前に居るとも知らない亀山は何でもない雑談として終わらせたけれど、不安は残る。

(惚れてる、か……)

 放送を観ていた業界関係者は何人も居るだろう。鋭い感性を持った者がスキャンダルの匂いを嗅ぎつけたとも限らない。

(世間から観た僕は、きっと身の程知らずの愚か者なんだろうな)

 桜雪の脳裏に『潮時』と云う単語が掠める。
 今なら未だ、水仙に迷惑が掛らない。彼女の名誉にも傷が付かない。
 そしてそれは山吹や菜花も同様だ。
 特に幼い菜花は愛人と云う言葉も不倫と云う爛れた関係も知らないだろう。そんな彼女の晴れ姿が、母親を傷付ける切っ掛けに成っていい筈が無い。山吹の仕事にも確実に支障を来たす。
 大切な人達の幸せが、桜雪の行動一つで変わってしまう。壊れてしまう。
 けれど頭では理解していても、人間の心は弱い。

 考え過ぎだ。
 誰も気付いてやしない。
 形だけの伴侶に遠慮して如何する。彼女も子供達も、近くに居るのは自分だろう。

 そんな甘い考えが浮かんでは消えて、桜雪の心に染みを作る。重過ぎる一歩が中々踏み出せない。

「――何やってんだ? アンタ……」

 後方から呆れた声が掛かる。
 現実に引き戻された桜雪は心の靄を一時的に振り払った。柔らかな笑顔を作り、振り返る。
 其処には活発そうな子供が、手提鞄を右肩に担いで立っていた。

「やあ。こんにち……いや、もう『こんばんは』の時間かな?」

 途中で挨拶を変える桜雪。
 茜色の夕焼けには、濃い色の雲が混ざり始めていた。

「ねぇ、緋色君」
「チッ。覚えてやがったか」

 緋色が不満そうに舌打つ。
 約半年ぶりの再会は唐突に。けれど山吹と云う接点が無ければ、緋色は桜雪の背後を無感情に通り過ぎていただろう。
 つまり二人は、出会った事を忘れていても何ら可笑しくない間柄。しかも緋色は、桜雪が覚えていない事を前提にアクションを用意していた様で有る。
 けれど進んでしまった時間は元に戻せないので、桜雪は笑顔を崩す事なく続けた。

「うん。君も覚えていてくれたね。嬉しいな」

 それは心からの本音だ。

「山吹に好かれてるからって、好い気になってんじゃねーぞ。この女男」

 緋色の闘志がゴォオオと燃え上がる。灼熱の炎も見える気がした。

「可愛いな」

 桜雪の頬が綻ぶ。
 全身全霊で『山吹への好意』を示す緋色の純粋さは子供特有の眩しさで、終ぞ微笑ましい。いや寧ろ、許されざる恋情を抱える桜雪は羨ましく思った。
 どんなに望んでも、桜雪にその『勇気』は手に入らないから。

「ハァァアア!? バカにしてんのか!」

 緋色の絶叫が耳を劈く。それは空気をビリビリ振動して、羽を休めていた小鳥達も退散を決め込んだ。
 けれど桜雪は耳を塞がず、眉をハの字に曲げる事で心情を伝えた。

「ああ、ごめん。立派な男の子に“可愛い”は、失礼だよね」
「りっ立派でも……ねーよ」

 緋色の口が勢いを失くす。

「オレがどんなに腕っぷしを上げても、山吹の態度は変わんねーし。喧嘩しようもんなら、勝敗よりも先に『怪我はないか?』とか、聞いて来るしよぉ」

 明後日の方向を向いて、独り言を呟く。

「オレが負ける訳ねーのに。あの野郎」
「それは、緋色君の事が心配だからじゃないかな?」

 桜雪は緋色の脚へ視線を這わせた。ハーフパンツから覗く膝小僧には、其処を覆う様に大判の絆創膏が貼られている。
 それが貼られた状況を想像すれば、山吹の心情も容易に連想出来ると云うものだ。

「うっせーな。分かった上での愚痴だよ! つか、聞き流せ」

 緋色の口が尖ったまま怒気を飛ばす。

「怪我の具合は、未だ痛む?」

 桜雪はご要望通り、緋色の“怒気”をサラリと聞き流した。

「ただの掠り傷だ。血だってもう止まってるよ」
「そうか。良かった」

 ホッと胸を撫で下ろす。と、緋色が諦めた様に息を吐いた。

「アンタと話してると、調子が狂う」

 それは何と返していいのか、少し迷う。

「えっと……」
「菜花と気が合うだろ?」



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あきゅろす。
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