初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心12


 つまり彼がクライアント――『April』の頂点に立つ男か。
 若過ぎる年齢は意外だが、重々しい雰囲気は経営者のそれを軽く飛び越えて、支配者の域に達していた。

「どうなさいました? 今日は広報の田中さんが来られる筈では」

 カメラマンの全身がブルブル震える。彼の恐怖が伝染して、他のスタッフも冷や汗を流す。

「田中は病欠だ」

 男は簡潔に述べ、カメラマンの横を無感情に通り過ぎる。
 彼が一歩踏み出す度に、靴音がカツカツと鳴る度に、緊迫感が増す。
 まるで食物連鎖の頂点に君臨する魂の支配者。鋭い眼光が場の空気を容赦なく切り刻む。

「あ、初めまして。僕は凛音」

 桜雪も慌てて駆け寄り、クライアントへ名刺を差し出す。
 モデル依頼は広報担当の田中からのもので、経営者である彼とは初対面だったのだ。

「不要だ。君を起用する機会は二度とない」

 整った容貌を微塵も動かさず、冷酷に言い放つ色男。それはポーカーフェイスを飛び越えた鋼鉄の無表情。
 ヒッと、誰かの悲鳴が冷たいスタジオに響く。

「けれど僕達はもう知り合いました。モデルとしては不合格でも、一人の人間として自己紹介させてください」

 桜雪はそう言って、ふわりと微笑む。
 厳しい第一印象がその人間の持つ本質とは限らない。
 世界の不器用な理を、桜雪は知っている。だから彼に対しても臆さなかった。

「僕の名前は凛音桜雪。変だと言われる事もありますが、自分では気に入っています」

 カラカラ、と。
 カラカラ、と。
 真新しい歯車が廻り出す。
 けれどそれは遥か遠い未来の糸を紡ぐモノで、桜雪は勿論目の前の男も皮肉な運命の廻り合わせに気付かなかった。

「……桜に雪か、何方も儚いモノの象徴だな」

 男は小さくそう言って、桜雪と改めて向かい合う。
 鋼鉄の無表情に変化は起こらないが、それでも桜雪は前進を感じた。

「卯月千夜だ」

 腰に響くバリトンボイスが自らの名を告げる。

「卯月、千夜……さん」

 桜雪は吐息を零すように彼――卯月千夜(うづきせんや)の名前を繰り返した。
 魂の奥底が震える。体内を駆け巡る不思議な感覚に、桜雪は一瞬惚けてしまう。

「ん? 私の名を知る気はなかったか」

 千夜の眉が怪訝そうに歪む。
 失礼な人間だと有り体に伝えられ、桜雪は慌てて頭を下げた。

「すみません。ボーとしてしまって。けれど、素敵なお名前ですね」
「世辞も不要だ。むしろ煩わしい」

 鋼鉄の無表情は微かな変化を見せたが、千夜との距離は余計に開いた気がする。
 何という体たらく。
 桜雪は自ら招いた失敗の重さに頭が上がらない。

「そ、それじゃあ準備も整いましたし、そろそろ撮影を始めましょうか」

 気まずさマックス。
 カメラマンが堪らず手を叩き、先を促す。
 しかし彼の動作は錆びたロボットのようにギクシャクしていた。相当の無理が見てとれる。




 昼になり、撮影も一時休憩となった。

「ああー。普段の10倍疲れた。精神的に!」

 後半の言葉に力を籠めて、カメラマンが伸びをする。
 場所は洒落た食堂。
 撮影スタジオが同ビル内に入っているので、昼食は此処でと云う事になった。
 桜雪もスタッフ達に交ざり、メニューブックを覗き込む。
 洋食の写真が数多く並び、ページを捲る度にオススメメニューが載っている。デザート類も豊富でメインターゲットは若い女性のようだ。
 因みに、千夜の姿はない。
 緊張から解放されたスタッフ達は完全に気を抜いていた。

「大体あの人さー。見た目はモデル並に良いけど、雰囲気が怖過ぎるんだよ。それで仕事内容も超厳しいって、ストレスで胃に穴が開くつーの!」

 特にカメラマンは色々溜め込んでいたようで、千夜への文句が止まらない。

「撮った傍からダメ出し連発しやがって。何が悪いんだチキショー!」

 酒でも流し込むような勢いで、冷水をがぶ飲みするカメラマン。
 備え付けの冷水ポットも握り締めたまま、離そうとしない。

「カメちゃんは悪くないよ。だから気をしっかり持って、ね!」

 カメラマンの隣に座る女性が困り笑顔で励ます。
 因みにカメちゃんとはカメラマンの愛称で、本名は亀山(かめやま)と云う。

「クミちゃ〜ん。キミだけが救いだよぉ」

 亀山が大袈裟に泣きのポーズを作る。
 クミちゃんと呼ばれた女性はメイク担当で、彼と仲が良いようだった。
 恋人同士なのかもしれない。

「ふわふわ玉子のオムライスお願いします」

 どんよりと淀む空気の中、桜雪は明るい笑顔で注文を伝えた。

「ご注文は以上で宜しいですか?」
「はい。デザートは後で」

 全員分の注文を聞き終わったウェイターが踵を返す。

「凛音さんって意外と肝が太いッスね」

 照明担当の青年――明松(あけまつ)が何の気なしに言う。
 彼の席は桜雪の隣だ。

「そう、ですか?」

 桜雪は笑顔を崩す事なく聞き返す。
 思い当たる節はない――とは、言い切れない。

「一番睨まれてたの凛音さんじゃないッスか。オレ達に気を遣ってるのかも知れないけど、明るいなーって」

 明松の右手には吸いかけの煙草。
 彼も気疲れを隠さず、ふぃーと煙を吐き出す。
 正直、煙たい。

「僕が要望通りの働きを返せないのは、残念ながら真実ですし。卯月さんも仕事熱心な人だと思うので」

 千夜の眼力は魂を切り刻まれるようだけれど、悪意は感じられない。
 出せる愚痴が、桜雪にはないのだ。

「若いのに偉いねぇ。ほらほらカメちゃんも自棄冷水止めなよ」

 冷水ポットを取り上げるクミ。まるで甲斐甲斐しい奥さんの図だ。

「またお腹痛くなっちゃうよ。わたしもうフォローしないからね」
「うん。あの時はごめんね、クミちゃん」

 亀山も素直に従う。コチラは完全に情けない夫の図だ。

「コイツ前にも冷水の飲み過ぎでトイレの住人になったんッスよ。いやー。残された方はマジ地獄でしたわ」

 明松の顔色がサーと曇る。相当苦い記憶のようだ。

「うん。もう宇宙空間に突然放り出されたような圧迫感が……ね」

 クミが同意を返す。彼女の顔色も青く染まり、肩がプルプルと震える。
 20代前半の千夜は彼等よりも年下だが、完全に恐怖の対象だった。

「結婚して少しは丸くなるかと思ったけど、まったく変わらんよなぁ」

 心底残念そうに肩肘を付く亀山。長い溜息も同時に吐く。

「えっ既婚者なんですか? 卯月さん」

 驚く桜雪。
 失礼だが、千夜に家庭の匂いは微塵も感じない。
 独身だと思っていた。

「しかも、デキ婚ッスよ。相手は大学卒業したてのお嬢さん」

 明松が声を潜めて、桜雪に耳打ちする。

「式は一応挙げたけど、教会に何人もの女が押し掛けて昼ドラ真っ青の修羅場劇場だったとか」

 数々の浮名を流す色男。
 整った容姿と高い地位を持つ千夜は異性人気が抜群で、交際範囲も広いらしい。
 そんな男が突然の結婚。
 寝耳に水の女達はタッグを組み、結婚式をぶち壊そうと押し掛けた。
 総勢20人にも及ぶ女性達は皆怒り、誰も手が付けられない状態だった。
 晴れの席は一変。
 お嫁さんはショックで泣き崩れ、華やかなブーケも悲しみに濡れた。
 悲鳴と怒号と噂話がグチャグチャに飛び交う修羅場中の修羅場。
 しかし千夜は矢継ぎ早に責め立てる女性達を片手で追い払った。
 その中には妻となる女性の姿も交ざっていたという。

「酷い男!」

 クミが吐き捨てる。

「浮気なんて大っ嫌い。みんな可哀そうよ」

 丁度運ばれてきたパスタを受け取ると、怒りのフォークを突き立てた。
 真っ赤なアラビアータを力任せに掻き混ぜる。
 相当ご立腹だ。
 この場に居る全員が冷や汗を流す。

「俺は浮気しない男だよ。安心して!」

 亀山が透かさず口を挟む。
 やはり恋人同士なのか、と桜雪は思った。

「うそ。綺麗なモデルさんが来る度に鼻の下伸ばしてる」

 アヒルのように唇を尖らせるクミ。
 未だ怒っているのかと云えば違うようで、声が甘えている。

「今日だって……あ、ごめんなさい。男性でした」

 根本的な間違いに気付いたクミが身を正し、桜雪と向き合う。

「いえ。慣れていますから」

 慣れたくはなかったけれど。

「ってか、凛音さんは恋人とかいないんッスか?」

 吸い終わった煙草を灰皿へ押し付ける明松。
 二本目は吸わず、桜雪へ話題を振った。

「え!? と、いや」

 桜雪の喉が交通渋滞を引き起こす。
 言える訳がない。
 けれどその時、更なる追い討ちが耳に届く。

『本日のスペシャルゲスト・雪白水仙さんの登場ですす!』

 ワァアア。パチパチパチパチ。
 割れんばかりの歓声と拍手が湧き上がる。
 音の出所は店内に置かれたテレビ。
 丁度、お昼のバラエティ番組が流されていたのだ。
 タイミングの、悪い事に。

『女優としては勿論母親として、そして一人の女としての素顔をこの私! この私のトーク術で丸裸にしたいと思いますよん』

 お笑い芸人出身の司会者がおどけてマイクを傾ける。

『まぁ。わたくし、下品な言葉を使う方は好感がもてません』
『こりゃまたお厳しい!』



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