初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心11



 ◆◆◆




「え? パリに……ですか?」

 肌に感じる気温が熱を持ち始める初夏。
 運命の歯車は、桜雪の世界を大きく変えようとしていた。

「ああ。デザイナーをしているワタシの友人が、向うで中性的な男性モデルを探していてね。条件も良いし、一度会ってみないか?」

 威厳を纏った中年男性が桜雪の顔を見詰めながら問う。
 彼は桜雪の所属するモデル事務所の社長だ。彼自身もモデル出身で、端整な顔立ちは現在でも人目を惹く。

「勿論、専属モデル契約を前提としてだ。まぁ5年は帰って来れないだろうが、これ以上に重要な仕事も決まっていないし、特に問題ないだろう」

 わざわざ確認するまでもなく、桜雪のスケジュールは穴あき状態だ。一週間後の仕事も決まっていない。

「けれど僕は……」

 思考が追い付かない。
 重い鉛を呑み込んだように喉が詰まる。
 桜雪は突然の申し出に戸惑いを隠せなかった。

「ハッキリ言おう。この国で幾ら頑張っても、キミの芽は出ない」

 社長の眼光が桜雪の胸に鋭く突き刺さる。

「素材が幾ら良くても、それを入れる器が合わないと料理は美味そうに見えない。シチューが金魚鉢の中に入っていたら、手が止まるだろう? 今のキミはソレと同じだ。ステージに立っても写真に写っても、何処かちぐはぐに観える」

 デスクに並べた写真を一枚持ち上げ、頬の横でヒラヒラと揺らす社長。
 それは桜雪の宣材写真だ。
 初々しい微笑みが穢れを知らない“清楚な少女”にも見える。

「これを観てキミを指名するクライアントは十中八九こう言うよ、『女性だと思っていた。残念だが、依頼内容を変更したい』とね」
「……僕は事務所の、お荷物と云う事ですか」

 桜雪の声音が深く沈む。
 分ってはいたけれど。社長直々に告げられるとショックを隠せない。

「早とちりしないでくれ。私はキミの美しさを買っている。ただ、輝かせる為の台座を持ち合わせていない」

 社長が残念そうに肩を竦める。

「今回の話は、キミの最大にして最後のチャンスだと考えてほしい」
「それはつまり『才能が無い』という事でしょう。パリへ行っても、役に立てるとは思えません」

 桜雪は自嘲気味に呟き、頭を振った。

「ワタシはそう思っていない。だから友人へ営業もするし、キミへチケットも贈るのだよ。凛音桜雪クン」

 高級感の有るプレジデントチェアーからスッと立ち上がる社長。
 全面硝子張りの窓から差し込む西日が服の上からでも分かる見事なボディーラインをなぞる。
 眩しい。
 恵まれた体躯は、現在でもモデルとしてお呼びがかかる程だ。
 尊敬の対象でも有る社長の温情は素直に嬉しい。
 けれど桜雪は簡単に頷く事が出来なかった。
 大学の事も有るが、一番大きい問題は――

「交際している女性が、いるんです」

 水仙の姿が脳裏に浮かぶ。
 山吹や菜花の笑顔も次々と再生され、桜雪は息を呑んだ。
 社長の善意を受け入れるという事は、彼女達との別れを意味している。

「何時からだ?」

 問い詰めるような強い口調。売れないモデルの端くれとはいえ、事務所の方針で恋愛スキャンダルは御法度だ。
 そんな事情も有り、桜雪は水仙との関係を今日まで報告出来ずにいた。

「今年の冬から……半年程になります」

 身を引き裂くような感覚が桜雪の喉を襲う。
 けれど嘘はつけない。
 桜雪は右手をギュッと握り締め、震える声を絞り出した。

「相手は一般人、それとも業界の人間か?」

 社長の眉間に皺が寄る。
 相手の立場次第で、事務所の対応方法も変わってくる。
 一般人なら軽いお咎めで済むが、業界人はそうもいかない。
 下手なゴシップ雑誌に嗅ぎ付けられれば、状況が悪い方向へと転んでしまう。

「…………」
「ワタシにも言えない相手か」

 社長が言い淀む桜雪の口許をギロリと睨む。

「つまり答えは後者――業界関係者だな」

 名探偵ばりの推理を閃かせる社長。まぁ簡単な二択問題なのだが。

「……ッ!」

 しかし桜雪の純粋な心臓は、素直に跳ね上がった。
 顔面蒼白。強張る頬に冷や汗が伝う。

「さて、残る問題はその交際相手だ。事務所の人間で、キミと“特に親しい女性”はいたかな?」

 コツコツと、緊迫に包まれる社長室に無機質な足音が響く。

「残念だがワタシに思い当たる人物はいない。だから、キミが教えてくれるかな?」

 社長は桜雪の前で足を止め、桜雪の左肩に右手をポンと置いた。
 その口角は半円を描いているが、社長の眼は微塵も笑っていない。真剣そのものだ。
 だから余計に怖い。

「なに、他言はしない。相手への謝罪も用意しよう」

 暗に手切れ金をちらつかせる社長。
 余計な“ドロ”は事前に掃っておけと云う事か。

「キミは未だ若い。若気の至りは分るが、モデルとしての未来も考えてくれ」

 けれど諭すような語り口調は優しく。桜雪の口をゆるりと促す。

「事務所の関係者ではありません。僕が個人的に、知り合った女性です」

 これが限界だ。
 これ以上は応えられない。
 桜雪は線を引くように、一歩下がった。社長の右手も肩から滑り落ちる。

「ふむ? 仕事先の人間か。これは特定が難しくなったな」

 けれど社長は桜雪の意図をまるで酌みせず、考えるポーズを形作った。
 桜雪の“相手”が判明したら、其方へ話を持ち込む気なのだろう。

(嗚呼……悪者なんていないのに、胸の奥がザワザワする)

 社長は正しい。
 自らの城に連なる使徒の未来を真剣に切り開いている。
 非など一ミリない。
 何処までも純粋に正しい姿だ。
 けれど桜雪は、パリ行きの件が流れてしまえば良いとさえ思う。

(自分自身が、嫌いになりそうだ)

 腹の奥底から湧き上がる嫌悪感を必死で抑える桜雪。
 もしも悪いモノが有るとすれば、それはタイミング――桜雪の運だ。
 水仙と――いや、山吹と出逢う以前の桜雪ならば、今回の話は何も問題なかった。社長にも快く頷いていただろう。
 けれど幸せが重い足枷となって、桜雪を『現在』に縛り付ける。
 誰が聞いても薔薇色の未来図が、灰色の世界にしか思えないのだ。

「愛はどんなに尊くても、何時か消えてしまうモノだよ。凛音桜雪クン」

 社長が何処か遠い眼をして、吐息を零すように言う。
 彼の人生経験は桜雪の倍以上だ。
 辛い別れを何度繰り返して、置き去りの過去にして、一つの道を進み続けてきたのだろう。
 未成熟な桜雪には想像も出来ない。

「だから僕にも、仕事を選べと?」
「仕事も満足に熟せない男は、女性にも逃げられると云う事さ。未成熟な若人よ」

 皮肉交じりにそう言って、社長は普段通りの顔を取り戻した。
 懐からエアメール封筒を取り出し、桜雪の胸へ押し付ける。

「読んでおきなさい。キミへの手紙(love call)だ」

 差出人は新進気鋭のファッションデザイナー。
 件の発端である社長の友人だった。




「はーい。モデルさん入りまーす」

 翌日。桜雪は心の靄が晴れぬまま、撮影スタジオに足を運んだ。
 スタッフの駆け声に反応したカメラマンが振り向き、桜雪を形式的に出迎える。

「ういーっす」
「今日は一日、宜しくお願いします」

 桜雪は丁寧に頭を下げ、心の靄を一時的に振り払う。
 今は目の前の仕事に集中。集中だ。

「あの『April』さんは」

 桜雪は頭を上げ、クライアントの姿を探す。
 『April』とは、輸入インテリアを取り扱う貿易会社だ。スタジオ内にも撮影用のソファーやティーカップがセッティングされている。
 ライトに照らされるデザイナーズソファーはシックなデザインで、遠目にも高級品だと分かる。桜雪には少々敷居が高い品ばかりを取り揃えていた。

(でも、山吹君は似合いそうだな)

 桜雪はふと、山吹の未来図を重ね合わせる。
 山吹はどんな大人に成長するのだろうか。
 水仙の血を色濃く受け継いだ美貌と、溢れる才能。一筋の弱々しいライトではなく、世界中の人間に絶対的な輝きを魅せる本物のスター。
 遠い未来の光景がアリアリと想像できる。
 けれど桜雪の腕がどんなに伸びても、影さえ捕まえられない。
 山吹も水仙も、そして菜花も。
 手の届かない遠い世界で光を生み出す存在だ。
 理解していた筈の現実が、高い壁となって桜雪の眼を覆い隠す。
 暗い。
 真っ暗だ。
 千年続く夜闇の底へ突き落されたように、心が迷子になる。
 未来への道筋が見つけられない。

「ああ、成程。容姿は綺麗に整っているが、それだけの男だな」

 鋭利な刃物が思考の闇を切り裂く。
 反射的に振り向くと、20代前半の色男が桜雪の姿を射抜くように観ていた。

「安物のイミテーション。まぁ、引き立て役には丁度いい」

 抑揚の少ないバリトンボイスが辛辣な言葉を躊躇なく浴びせ掛ける。
 彼の登場に顔を青くしたのは周りのスタッフで、手際よく動いていた手がピタリと止まった。

「あ、あああ。うううう卯」

 悲鳴にも近い声を捻り出し、若手のカメラマンが彼の前に躍り出る。
 桜雪への態度とは真逆。腰が完全に引けていた。



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あきゅろす。
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