初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心10


「うふふ。菜花ね、素敵な発見をしたの」

 花の妖精のようにふわふわ微笑む菜花。

「うん? 何かな」

 対する桜雪も菜花がポーズを変える度に笑顔でカメラのシャッターを切る。
 デジカメなのでフィルムが無くなる心配はないが、たかが試し撮りで何十枚撮る気であろうか。

「ママはスイセン、兄さんはヤマブキ、菜花は菜の花、それに桜雪さんは桜。皆お花の名前ね」

 頬の横で両手を合わせ、可愛らしく首を傾ける菜花。
 ファッション雑誌の表紙を飾っても遜色ない瞬間が家庭用カメラに収まる。

「そうだね。“雪”も含めて皆お揃いだ。もしかして水仙さんが合わせたのかな」
「まぁ。ママったら、ロマンチスト〜」

 菜花の周りにハートが浮かぶ。

「偶然です!」

 思わず水仙は朗らかな会話に割り込んだ。
 確かに子供達は水仙の名前に因んで花の名前を付けたけれど、桜雪を選んだ理由はそれと全く関係ない。
 例え桜雪の名前が『田吾作』だろうが『喜右衛門』だろうが、水仙の感情は変わらなかっただろう。

「あら、ママ。桜雪さんレンタルの終了時間かしら?」

 菜花が桜雪の脚に抱き付き、名残惜しそうに問う。

「いえ、お茶の誘いに来ただけです。京都土産に桃山を頂いたので、今日は抹茶にしましょう」

 そう言うと水仙は菜花から桜雪へ視線を移した。

「勿論、中身は白餡ですよ」




 カッポーン。
 ししおどしの風流な音が茶庭に響く。

「おほん。身内だけの茶会ですので作法は厳しく致しませんが、あまり騒いではいけませんよ。菜花さん」

 水仙は咳払いを一つして、障子を開けた。
 雪白家の離れは水仙の趣味を反映して、本格的な茶室になっている。
 多忙な身なので使用頻度は高くないが、管理は疎かにしていない。真新しいイ草の香りも心をホッと落ち着かせる。

「まぁ、綺麗。ツバキのお花だわ」

 注意された側からてててと駆け出す菜花。
 流石にランドセルはリビングへ置いて来たが、浮かれた足取りは変わらない。
 床の間の前まで行き着き、今朝生けたばかりのツバキを食い入るように見詰めた。

「ツバキは散らないお花。役目を終えても綺麗なまま、大地へ還ってゆくの」
「へぇ。菜花ちゃん、お花に詳しいね」

 桜雪が菜花の横へ移動して、幼い子供の言葉に感心する。

「うふふ。ママと兄さんに教えてもらったのよ」

 くるりと振り向く菜花。その動きに合わせ、フリルスカートの裾が花弁のようにひらめく。

「ふふ。楽しそうだな」

 座布団を運んできた山吹が2人の様子に笑みを零す。

「いいのですよ。山吹さんもお手伝いは後にして、凛音君と遊んで来なさい」

 釜の水は入れたばかりだ。沸騰までは抹茶も点てられない。
 そんな建前を用意して、水仙は初恋を奪ってしまった息子の行動を促す。

「いえ。私は母さんが火傷しないように見ていないと」

 しかし山吹は座布団を下ろすと、使命感に燃えた。

「わたくしは心配ありません。茶道は山吹さんが産まれる以前から嗜んでいます」

 胸を張って主張する水仙。
 レンジで作った目玉焼きが爆発した事は有るが、茶釜が吹っ飛んだ事はない。

「それに、親子の間で遠慮は無用ですよ」

 水仙は柔らかな母親の声を出し、山吹へ優しく語りかける。
 山吹は家族思いのとても良い子だ。
 今も自分の幼い恋心が水仙と桜雪の関係を壊さないよう、彼なりに距離感を測っているのだろう。
 けれど純粋な恋心を無理に閉じ込める必要はない。
 水仙は山吹が一度閉めた扉の鍵を創り出す。

「菜花さんを見なさい。まるで二人目のお姉……おほん……お兄様が出来たように燥いでいるでしょう」

 わざとらしい咳払いを台詞の間に挟む水仙。
 すると桜雪が菜花との会話を止め、此方に振り向く。

「水仙さん……今何か、言いかけました?」
「ええ。山吹さんが家族愛と友情の狭間で悩んでいるようなので、アドバイスを」

 水仙は桜雪の質問を素知らぬ顔で逸らす。

「あ、もしかして山吹君……僕の事を嫌いになった?」

 何となくの事情を汲み取った桜雪の顔色が曇る。

「そうだよね……僕はとても酷い事を」
「違う! 凛音さんを嫌いになんて、絶対なりません!」

 山吹の叫び声が桜雪の言葉を掻き消す。
 演技の練習ではない実生活で、山吹が声を荒げる事は珍しい。桜雪の存在がそれ程まで影響を与えたと云う事だ。

「私は……ただ、邪魔をしないように」

 今度は山吹の顔色が曇る。声も肩もシュンと萎み、大人びた子供は本来の姿を表す。

「愛しくは思っても、邪魔だなんて一度も思った事はありませんよ。山吹さんはわたくしの大切な息子なのですから」

 水仙は正座を崩し、畳から立ち上がる。
 本来責められるべきは、不貞を犯している水仙の方だ。
 山吹の前まで行き着くと、愛しい息子の瞳を真直ぐ見詰めた。

「母さん」

 澄んだアメシストが揺らぐ。

「貴方が不幸な幸せなんて、わたくしは要りません。だから不必要なモノまで溜め込まないでください」

 その言葉に偽りは無い。
 水仙の一番大切なものは自分のDNAを受継いだ子供達だ。もしも『どちらかを選べ』と神の究極選択を迫られても、答えは決まっている。
 桜雪には悪いけれど、水仙は許されざる恋情を凍結させる覚悟だ。

「身勝手な母親だ。人の宝物を横取りするなと、素直に罵ってくれてよいのです」

 寧ろ水仙は聞きたかった。山吹が叫ぶ、心からの本音を。

「……それは私が、守られる立場の子供だからですか?」

 山吹が無力な己を嘆くように拳を握り締める。

「だとしたら、母さんは私を侮っている。母さんが嫌な事は私も嫌だ」

 真剣な眼差しが水仙を射抜く。

「凛音――いや、桜雪さん!」

 そして山吹は息を深く吸い込み、桜雪と向かい合う。

「はい」

 人生の一大決心を背負った気迫。桜雪の表情も自然と強張る。
 けれど山吹の告白は、桜雪が予想しているモノとは真逆の感情だ。

「私は……貴方の事が、大好きでした。今もこれからも、『凛音桜雪』が、私の幸せな初恋です」

 心の奥底がギュッと締め付けられる。
 桜雪だけが知らなかった愛情の欠片が、切なく解ける。

「あ、……えっと」

 桜雪の口が戸惑う。
 世間に名の通った大女優の次は、その息子。僅か三ヶ月の間で、彼の人生は劇的に動き過ぎている。

「ごめんね。気付かなくて……」

 形の良い眉が辛そうに歪む。

「いいえ。普通は気付きませんよ。こんな子供の片想いなんて」

 山吹は首を横に振った。
 軽く受け流されて終わっても可笑しくない告白を、桜雪は真剣に受け止めてくれた。それが何よりも嬉しいと、伝えるように。

「私は桜雪さんに、ちゃんとした形で振られたい」

 無理に作った笑顔から透明な滴が零れる。

「僕は今でも、そしてこれからも――君との出逢いを人生最大の幸福だと思っているよ。山吹君」

 桜雪は山吹の頬に指を伸ばすと、想いの結晶を優しく拭き取った。

「けれどごめん。僕は今、好きな女性がいます」

 凜と鳴る声音が静寂の空間に沁み込む。

「はい。知っています。それは私の、大切な人だ」

 山吹は深く頷き、息を長く吐き出した。
 無理に閉じ込めるのではなく、昇華させる為の儀式。
 次に顔を上げた時、山吹は心からの笑顔を咲かせた。

「ありがとうございます」

 とても美しい初恋を。

「そして母さんの事、宜しくお願いします。……色々“大変”な女性ですけれど」
「ああ、それはもち」
「最後の言葉が余計ですよ。山吹さん」

 思わず口を挟む水仙。
 話の途中で言葉を遮られた桜雪も、困ったように「水仙さん」と呟く。

「ふふ。私の溜め込んでいたモノは以上です」

 山吹が可笑しそうに肩を揺らす。

「母さんへの文句なんて一つもない。遠慮無用というのなら、桜雪さんともっと仲良くしてください」
「菜花も兄さんにさんせー」

 明るく右手を挙げる菜花。彼女は事の成り行きを大人しく見守っていたのだ。

「ママはラヴを隠しすぎよ。菜花ももっと仲良しさんな所が見たいわ」

 今まで口を噤んでいた分、菜花の乙女パワーが一気に爆発する。

「わたくしは場を弁えているだけです。子供達の前ではしたない真似は致しません」

 しかし水仙は慣れたものだ。菜花への対応も平然と済ます。

「むぅ」

 菜花の頬がぷくーと膨らむ。そう、まるで焼き餅のように。

「さあ、お湯も沸きましたし。オヤツにしましょうか」

 水仙は仕切り直すように手を叩き、当初の目的に戻る。
 釜蓋を開けるとホワホワの湯気が天窓から差し込む陽光と溶け合う。穏やかな午後の続きへ。

「凛音君。子供達にお菓子を分けてくれますか」

 抹茶を手際よく点てながら、桜雪へ要望を伝える水仙。

「はい。ほら、山吹君も菜花ちゃんも座ろう」

 桜雪は山吹の肩をポンと押し、変わらない笑顔で接する。
 それが彼なりの気遣いだと山吹も気付いたようで、頬がふわりと綻ぶ。

 春の温もりを届ける緑風がツバキの花弁を揺らし、優しい花の香りが茶室を満たす。
 おそらく今が、水仙と桜雪が過す一番幸福な時だ。



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あきゅろす。
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