初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心9


 珈琲の香りが桜雪を包み込む。
 午後のひと時は優しく流れ、水仙の心も解きほぐす。
 カフェが創り出す空間の癒し。それとも桜雪が纏う空気が作用しているのか、分からないけれど。

「今日は春の木漏れ日のように和やかな日ですね」

 柄にもない言葉が水仙の唇から零れる。
 穏やかでやわらかい声音。それは水仙本人でさえも、自分の声だと瞬時に気付かなかった。
 冬の中の木漏れ日。窓から差し込む陽光が暖かく、心地良い。

「ええ。小鳥の囀りも歌っているように楽しそうで。テラス席が羨ましいな、間違いなく特等席だ」

 夢うつつが魅せる幻影のように、桜雪が頷く。
 その時初めて、水仙は自分の言葉に気付いた。不思議な感覚。

「山吹さん――息子とも、こんな話を?」

 水仙は照れ隠しに抹茶ラテをもう一口含む。
 苦味の薄い甘い味。まだ慣れないけれど、悪くはない。
 喉を潤した事で桜雪との会話も弾む。

「いえ。仕事を始めた切っ掛けなどを、お互いに。ふふ。其処は男同士ですね」

 桜雪の頬が思い出に綻ぶ。
 そして彼もコーヒーカップに口を付けて喉を潤した。

「そうですか。あっそういえば山吹さん、何時の間にかコーヒーを嗜むようになって。先を越されてしまいました」

 ふと息子の近況を思い出す水仙。
 毎回ではないけれど、山吹は休憩時間にコーヒーを飲むようになった。その切っ掛けは他でもない、桜雪だ。

「恥ずかしながらわたくし、コーヒーは付き合い程度しか口にした事がないものですから。驚いてしまって」

 ひそりと声を潜めて、身近な人間しか知らない秘密を明かす。
 誰もが知る大女優と売れないモデル。水仙と桜雪の間に、世間の壁は微塵も存在しない。
 デートを楽しむ初々しい恋人同士。そんな錯覚さえ感じてしまう。

「僕は逆に、抹茶を飲んだ経験がないので。実は貴女が注文した時、驚きました」

 桜雪が水仙の真似をするように声を潜める。
 自然と顔を突き合わせる恰好になって、お互いの口許が緩む。
 何だが可笑しい。ひた隠しにする程の秘密でもないのに。今は他の人間に聞かれたくない。

「おや、イメージと違いましたか?」

 水仙は桜雪を見詰めたまま小首を傾げる。
 落ち着いた紺地に雪の結晶が施された着物。水仙は今日も和服に身を包んでいた。
 洋服を着る機会があるとすれば、それは虚像(ドラマ)の中だけだ。

「いえ。上品な大和撫子そのままのイメージで、ウェイターさんとの会話が……あ」

 そこまで言って、桜雪の視線が横に逸れる。
 水仙も反射的に同じ方向を窺うと、店内の注目が自分達に集まっていた。客も店員も関係なく、コソコソ噂話を広めている。
 抗えない現実が強引に意識の腕を引く。

「そろそろ、お開きにしましょうか」

 水仙は女優の仮面を呼び戻し、緩んだ口許をピンと整え直す。
 本当は名残惜しい。けれど世間の目はそれを許さない。
 桜雪も頷き、紙袋を持って立ち上がる。そして2人は無言のままカフェを出た。




「夢のような時間は短いというけれど、本当ですね」

 桜雪が先に口を開く。
 繁華街から離れた並木道は人の往来が少なく、他人の会話を盗み聞くような無礼者はいない。
 それでも桜雪は周りの様子を確認してから、水仙と向き合った。
 ふわりと、綺麗に微笑む。

「ありがとうございます。一生に一度の素敵な思い出が出来ました」

 現実の壁が急激に押し寄せる。
 桜雪と水仙の道を繋いでいたコートは、もう返してしまった。プライベートを共に過ごす機会と共に。

『一歩を踏み出さないと、赤い糸にはならないわよ』

 嗚呼、本当そうだ。
 水仙は菜花の幼い力説を思い出し、桜雪との距離を一歩詰める。
 自分でも可笑しな行動だと思っていた。けれど止まれない。
 女優でも、母親でもない。桜雪には、一人の女性としてみて欲しい。

「一度なんて、言わないで下さい」

 それは贅沢で、許されざる願いだろうか。
 桜雪は突然の申し出に綺麗な目をパチクリさせている。当然の反応だ。
 水仙と夫の関係が既に破綻していても、世間的には人妻。配偶者のいる身だ。
 ゴシップ雑誌や明るい構成のニュース番組。その他多くの媒体で、夫婦の不仲は世間に知られている。
 それでも水仙の熱愛報道が世間を賑わせた事例は一度だけ。現在別居中の夫と結婚を発表した時だけだ。
 大きいニュースだった。
 マスコミもノーマークで、水仙の後を数えきれない程多くのカメラが追いかけ回した。
 今となっては光に溢れた眩しい過去。
 けれど嗚呼――今現在水仙の前に立つ男性は、当時まだ小学生か。
 真実は小説よりも奇なりというけれど、これがドラマならば監督や脚本家にストーリーの酷さを訴えている所だ。

「え、と……あの。ごめんなさい。経験が少ないもので、今少し……頭が混乱しています」

 流麗な音を奏でる桜雪の声が所々詰まる。
 混乱と緊張と、世間体。その他諸々の感情が鬩ぎ合っているようだ。

「それはつまり……あ、いや、僕の自惚れかも知れないですけれど」

 言い掛けた言葉を喉の奥へ仕舞う桜雪。
 恥ずかしそうに口許を隠し、白い頬を朱に染める。

「お茶会への誘い……では、ないですよね」
「ええ。ですが、それも良いですね。粒餡とこし餡、何方がお好みですか?」

 小さな悪戯心がひょっこり顔を出す。
 思えば年下相手に振り回られてばかりだった。それに恋の予感に照れる桜雪の顔をもっと見てみたい。
 自分の正念場を一度超えた水仙の好奇心は緊張にも勝った。

「ごめんなさい。混乱するようなセリフを追加しないでください。……でも強いて挙げるなら、白餡が好きです」

 桜雪は困りながらも水仙の質問にキチンと返答を返す。
 真面目な人柄の一面。それとも単に戸惑っているだけ?
 そんな事も、水仙は知らない。だから都合よく解釈する。

「まぁ。第三勢力の方でしたか」

 驚く口許を右手で覆い隠す水仙。
 反対に桜雪は自分の口許から掌を外し、溜息をハァと吐き出した。

「何だろう。この感覚、とても翻弄される」

 桜雪が遠い空の彼方を見詰め、独り言を小さく呟く。

「何故でしょう。親しい方に程、よく言われます」

 小首を傾げる水仙。
 それが雪白の持つ天性の魔性である事に、彼女自身は気付いていなかった。

「今の、聞こえました?」
「ええ。耳が良いもので。何か問題でも?」

 水仙が本気で問えば、桜雪は困り笑顔を浮かばせる。

「いえ。失礼なのは、僕の方ですね」

 そう言うと桜雪は改めて身を正す。
 覚悟を決めた瞳に見詰められ、水仙の心臓は甘く高鳴る。

「これからも僕と逢ってもらえますか?」
「はい。喜んで」

 頬が自然と綻ぶ。
 水仙と桜雪はこのやり取りの後、付き合い始めた。
 勿論世間には秘密の関係。普通の恋人同士が当たり前のように口にする愛の言葉も、軽々しく外へ出せない。
 不便で窮屈。未だ若い桜雪は特にそう感じていただろう。
 けれど桜雪は不満を言わず、花が綻ぶような微笑を絶やさなかった。
 水仙の前でも、子供達の前でも。彼はとても『良い人間』だった。




 ◆◆◆




「うふふ。菜花ももう直ぐお姉さんね」

 菜花が新品のランドセルを背負う。ダンスを踊るような軽い足取りでリビング中をクルクル回り出し、浮かれっぱなしだ。
 季節は冬から春へ移り変わり、菜花の小学校入学も間近に迫っていた。

「菜花ちゃん、こっち向いて」

 呼び声に振り向く菜花。その瞬間、カメラのフラッシュが光る。
 本番前の試し撮り。本来なら両親の役目だが、今回水仙は見守る側。四月から始まるドラマの台本を読みながら、ソファーに腰かけていた。

「今のはダメよ。背景がテーブルの角だったもの」

 菜花の口調からは幼い舌足らずさが抜けて、蜂蜜みたいな少女の甘さだけが残った。

「そうだわ。可愛いお花がいっぱい咲いている、お庭に出ましょう」

 名案を思い付いた菜花が両手をポンと叩く。
 菜花の夢は相変わらずモデル一択だ。写真の写り方にも彼女なりの拘りが有るようで、例え日常の一コマでも妥協を許さない。
 一応プロモデルである桜雪を先導して、庭へ繋がるテラス窓を開けた。
 春先の暖かい微風が菜花と桜雪の髪を同時に揺らし、室内に流れ込んでくる。

「ママ。桜雪さんをお借りするわね」
「ええ。ご自由にどうぞ」

 菜花は実父との思い出が少ない。桜雪に懐く理由も父親の面影を求めているのだろうか、と水仙は思う。
 子供達は水仙が戸惑う程あっさり、桜雪との関係を受け入れた。彼が訪ねて来る日は前日からワクワクしている。
 桜雪に対して淡い感情を秘めている山吹の反応は正直怖くもあった。
 拒絶されてもおかしくない。
 水仙は息子に打ち明ける時、相当の覚悟を決めていた。
 けれど山吹は菜花と同じく、母親の恋人を笑顔で迎えたのだ。

「すっかり菜花の独擅場だな」

 山吹が窓辺に立ち、庭の様子を微笑ましく眺める。
 春の花々が咲き零れる花壇の前。カメラを構える桜雪の姿は年の離れた兄のようだった。



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あきゅろす。
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