初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心8
「ありがとう。とても温かいですよ、菜花さん」
頬の筋肉が無意識に緩む。
水仙は菜花の頭をよしよしと撫で、可愛い娘を抱き上げる。それは大女優が魅せる演技ではない。ありのままの姿だ。
「微笑ましいな」
桜雪が見惚れたように呟く。
「失礼ですけれど、厳しいひとだと思っていました。こんなにも素敵な女性に対して」
続く言葉は純粋で、嫌味など微塵も感じられない。
桜雪は不思議な人物だ。水仙や山吹に、現実の中の虚像を求めない。
普通に過ごす日常の一コマとして、スーパースターと接している。自然体だ。有り得ない。
「本当に、自分の思い込みが恥ずかしいです」
「な……に、言って?」
衝撃の雷が、水仙の脳内を駆け巡る。
桜雪のような人間を知らない。本当のプライベートを曝した夫でさえも、視えない壁を隠していた。
水仙はあくまでも画面の中で生きる存在。それが当たり前で、常識だった。
それは役者の世界に生きる者も変わらない。
現在ドラマで共演している俳優は桜雪よりも長い時間を共有しているけれど、仕事上の会話しか交わさない。ドライな関係だ。
水仙自身も若者の日常生活など興味なく、まるで気にしていない。それはお互いの共通認識で、これからも変化する事はないだろう。
しかし桜雪はどうだ?
そんな常識知りませんと、水仙の世界へ簡単に足を踏み入れて来る。
無意識に、純粋な心のままで。
こんなに厄介な人間はいない。蓋を何度閉じても、新しい穴が開く。広がって広がって、誤魔化せなくなる。
「そうなの。ママはね、カワイイひとなのよ」
動揺する水仙を置き去りに、菜花が応える。
張り切るキューピッドはテンションを更に上げ、とても良い笑顔で桜雪の反応を喜ぶ。
「うん。そうだね。菜花ちゃん」
桜雪も桜雪で、菜花の言葉を優しく受け入れる。どうやら子煩悩のようだ。
「うふふ。なのは、さゆきさんのコトすきだわ〜」
「嬉しいな。ありがとう。今日は四つ葉のクローバーを見付けた時のように良い日だ」
「まぁステキ。きっとようせいさんが、うんめいのまほうをつかったのね」
周波数が似通っているのかも知れない。
桜雪と菜花が揃うと、何時にも増して空気がホワホワと綻ぶ。幻の花畑も満開だ。
身を凍らせる寒さも、忘れそうになる。
「クシュン」
しかし生理現象は自分の意志で操れない。今度は水仙のクシャミが小さく漏れる。
冬の景色を彩る雪は降り続けて、髪や肩を白く染めていた。
「安物のコートで申し訳ないですけれど」
ふわり。温もりが、水仙の両肩へ舞い降りる。
その正体は桜雪のコート。彼は自分のコートを当たり前のように差し出し、水仙を氷点下の気温から守ったのだ。
「あ、いえ。もう帰りますので、結構ですよ。そんな気遣い」
咄嗟にコートを脱ごうとする水仙。しかし菜花を抱えている状況では、それも困難だ。
「貴女が風邪を引くと、心配するひとが多いでしょう。そして僕もその一人だ」
言い聞かせるような桜雪の口調は強く。水仙の言葉は出遅れる。
「そうですね……すみません」
本気の心配が嬉しいと、胸が性懲りもなく高鳴ってしまう。
それから水仙は桜雪へ礼を伝え。大学へと戻る彼の背中を母子3人で見送った。
「どうしましょう」
切ない吐息がハァと零れる。そんな水仙の眼前には洗濯機。
しかし操作方法がよく分からない。
とりあえず洗剤を“1箱分”入れて、蓋をしてみたが。変化なし。全自動の筈なのにおかしい。
水仙は右頬に掌を当てて、小首を傾げる。まさか壊れたのだろうか。
「母さん!? コートは家の洗濯機で洗えませんよ」
その時、山吹が慌てて飛んで来た。
流石頼りになる息子は、洗濯機の蓋を難なく開ける。
ピュアホワイトのコートを救出して、纏わり付いた洗剤も素早く払い落とす。そして「スタートを推す前でよかった」と、胸を撫で下ろした。
「けれど山吹さん。借りたものは、綺麗に返さなければなりません」
タイミングが悪い事に、今日はクリーニング店の休業日。
ならば借りた本人である水仙が、腕を捲らなければならない。たとえ不慣れでも、だ。
「それは正しいと思います。けれど、凛音さんのコートがグチャグチャになってしまう」
山吹が桜雪のコートを畳む。丁寧に、優しく、宝物を扱うような手付きで。
「山吹さんはあの方の事がお好きなのですね」
ただ純粋に思う水仙。しかし山吹の頬は見る見る内に赤く染まった。
「いえ! あ、違う。凛音さんは……あああ憧れの人で、迷惑はかけられない……と、」
動揺を隠しきれない山吹の声が揺れる。アメジストの瞳もキョロキョロと右往左往し、視線が定まらない。
大人びた山吹の珍しい反応。まるで友情以上の感情を秘めているような。
「山吹さん、もしかして」
はたと思い当たって、水仙は息を呑む。
山吹は母親似だ。それは容姿だけでなく、演技プランや人間の好みまで。深い根の部分が繋がっている。
水仙の思い過ごしでないのなら、桜雪に対しても同一の感情を宿している。
「そうですか。あの方は本当に――厄介な存在ですね」
息を長く吐き出す。
水仙は山吹の横へ並び立ち。手の甲をそっと握り締める。
小さくて幼い――成長途中の子供の手だ。水仙の掌に、すんなりと覆われる。
「母さん?」
なんて可愛い恋敵。
キョトンと戸惑う表情も、最高に愛おしい。
水仙はそのまま山吹を引き寄せて、抱き締めた。洗剤の香りが舞い上がる。
「ごめんなさい。わたくしは、良い母親では有りませんね」
息子の初恋に乱入するような母親は滅多にいない。
水仙は自分でも最低な母親だと思う。
けれど同時に、山吹の恋が決して叶わない事も理解している。
母親としての感情と、女としての感情。二つの糸が縺れて絡まって、解けない。グチャグチャだ。
本当に桜雪は、水仙の世界を簡単に壊す。
別居中の夫と出逢った頃は、恋に不慣れな夢見る少女だった。
しかし今の水仙に残っているものは、恋の苦さと残酷さだけ。初々しい胸の高鳴りも、愛される幸福感も忘れてしまった。
新しい恋の扉も重く。試練が次々と現れる。狂おしい。それでも桜雪は消えてくれない処か、容赦なく侵入してくる。
厄介だ。厄介で、厄介で。水仙は自分の感情が制御出来ない。
「そんな。母さんは少し、不器用なだけですよ」
山吹が「洗濯くらいで大袈裟な」と、苦笑する。
そして彼は水仙の腕の中からスルリと抜け出した。
「凛音さんの連絡先。知らないでしょう」
「え?」
一瞬意味が分からず、キョトンとする水仙。
山吹は明るく、何も知らない子供のように続けた。
「凛音さんのコート。クリーニングが終わったら、返しに行かないと」
ポケットから手帳を取り出し、ページを開く山吹。
その右手が一枚の紙片を取り上げて、水仙へ手渡す。今この場で破り取ったものではなく、元々挟まっていた紙片だ。
丁寧な文字で書かれた住所と個人用メールアドレス。それは水仙の知らない、桜雪への道筋だった。
◆◆◆
後日、水仙はクリーニング店を訪れた。洗濯済みのコートを受け取る為だ。
「うわっ! 雪白水仙!?」
見慣れない店員が目を丸くして、有名人の来店を出迎える。
家の近くに有る馴染の店なのだが、どうやら事情を知らない新入りのようだ。
急いでいると伝えても、返事がワンテンポ遅くボンヤリしている。コートを畳む手付きもお座なりで、水仙を凝視し続ける。
店長も留守だと言うし、他の客もいない。
好奇な視線に慣れた水仙も、流石に居心地悪さを感じる。
やっと手許へ来たコートを受け取り、精算を済ませると、足早に店を出た。
待ち合わせ場所はオープンテラスが素敵なカフェ。大学が近く、客層も殆どが学生だ。
場違いとも思える店内を静々と歩む。
目的の人物はすぐに見つかった。本人は静かに本を読んでいるけれど、麗しの美貌は遠慮なく偉才を放っている。
物言わぬ口許がどんな美女よりも色っぽい。と、失礼な感想を頭の隅で打ち消す。
彼の男らしさは知っている――知らなければ、心など奪われなかった。
眠る恋心を無自覚に起こして、純粋に惑わせる厄介な人。
「あ、態々ご足労いただきまして」
桜雪が本を閉じて立ち上がる。
正面の席を促されて、水仙は素直に従った。
窓辺の席からはオープンテラスが良く見える。今日は天気が良く。日光浴を楽しむ若者がちらほら座っていた。
「何か逆にすみません。お忙しいのに、時間を作らせてしまいましたね」
桜雪が立ったまま頭を下げる。
彼の服装はメルトンジャケットにストールマフラーを合わせた、大人っぽいスタイルだ。上品さと清潔感が同居している。
しかし防寒着としては力不足。暖房の効いた室内では問題なくとも、空風吹き荒ぶ屋外では寒そうだ。
「いえ。借りたものを返すのは当然の事ですから」
気にせずお座りなさいと促して、水仙はクリーニング店の紙袋をテーブルの上へ置く。
意図を汲み取った桜雪が紙袋を受け取り、再び腰を下ろす。
そして桜雪はコート入りの紙袋を膝に乗せた。水仙の確認を取ってから、中身を確認する。
「あ、これ……は」
桜雪の右手が袋の中を探り、5p四方の紙片を一枚取り出す。
メモ帳のページ半分が乱暴に破り取られ、二つに折られている。見覚えがない。
何処かでゴミでも混入したのだろうか。
「失礼。貴女宛でした」
水仙が疑問に思っていると、桜雪が申し訳なさそうに紙片を渡す。
何か書かれていたようだ。
水仙は受け取った紙片へ視線を這わせる。
「ずっと貴女のファンでした。良かったら連ら……く!?」
予想外のメッセージに喉が詰まる。それは所謂恋文(ラブレター)だった。
走り書きの電話番号に、ハートマークまで付いている。
紙袋はクリーニング店で受け取った状態のまま、ずっと水仙が持っていた。忍び込ませるチャンスが有ったのは、クリーニング店の新入り店員くらい。
広い目で見れば桜雪にも可能だが、連絡先や字面が異なっている。第一彼が、プレイボーイのような真似をするとは思えない。
「これは、気付かなかった事にしましょう」
紙片を線に沿って折り直し、帯の間へ押し込む。綺麗に姿を消した緊急事態は後で処分しよう。
水仙は顔も忘れかけている男へホイホイ連絡するような女ではないのだ。
況して今は桜雪が目の前にいる。興味無い相手からのアプローチなど、邪魔でしかない。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
カフェの店員が明るく現れる。
水仙は気持ちを切り替えて、其方へ向き直った。
「抹茶をいただけますか」
「はい。当店の“抹茶ラテ”はトッピングにクリームと黒糖がお選びいただけますが、」
メニュー表をサッと取り出し、商品の説明をスラスラ語る店員。
深緑色の液体が耐熱ガラスに注がれ、生クリームや黒糖ゼリーが浮かんでいる。それは水仙の求める抹茶と、まるで別の飲み物だった。
「……普通のものを、お願いします」
「ノーマルですね。承りました〜」
それから3分後――見知らぬ飲み物が意気揚々と運ばれてきた。
水仙は戸惑う内心をおくびにも出さず、口を付ける。甘い。が、抹茶の味はする。多少薄いけれど。飲めない事はない。
「抹茶ラテは初めてですか?」
味を吟味する水仙へ、桜雪がにこやかに話題を振る。
「ええ。そうですが。まさか、作法が間違っていましたか?」
だとしたら、かなり恥ずかしい。水仙は茶道を嗜む身なのだ。
「いえ。山吹君と同じ表情(かお)をしていたので。もしかしてと」
桜雪の微笑みが優しく深まる。嬉しい発見をしたと伝える声音も楽しそうに弾む。
「慣れない飲みにおっかなビックリ。でもそれを面(おもて)へ出すのは一瞬で、直ぐに表情を綺麗に整える――本当にそっくりで、微笑ましいな」
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