初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心7


 ――それから水仙は少し変わった。




「『もう、恋なんてしないと……決めていたのに』」

 祈るように組まれた両手が小刻みに震えて、女の葛藤を切なく伝える。 
 亜麻色の髪を揺らす微風さえも、彼女の前では物語の一部。不規則な風の流れがまるで揺れ動く女心を表現しているようだ。

「やっぱ凄いッスね、雪白水仙!」
「ああ。相手役の俳優、若手の中では演技派って触れ込みだったのに。ありゃ完全に飲まれてるぜ」
「なんか可哀想よね〜。折角カッコイイ顔なのに、フフッ……存在感が消えちゃって」

 今は水仙が出演する連続ドラマの撮影中。
 スタジオの隅では人影が集まり、内緒話を交わしている。年若いAD二人と、女性メイクが一人だ。

「『どうして貴方は、私の前に現れたの?』」
「『それは……』」

 問う女性に、口ごもる男性。
 エリート街道を進む強い女性が年若い青年と出会い、恋に落ちる。大人のラヴ・ストーリー。
 主演は『雪白水仙』。同じような境遇のキャリアウーマンや主婦層に人気が高く、視聴率の伸びもいい。

「『ごめんなさい。本当はボク――』」

 少々踏ん切りがつかない相手役はオドオドした演技がリアルで、本当に怯えているようだ。いや、圧倒の方が正しいか。
 それに母性本能が擽られると、視聴者には好評だ。が、しかし。気弱な人間は、水仙の個人的な好みから外れている。

「『他に好きな女性(ひと)がいるんです』」
「『え――?』」

 突き付けられた残酷な現実。水仙は呆然と佇み、制御の効かない涙腺が滴を流す。それは台本にない“失恋”の悲しみだ。

「はい。カット。水仙さーん、最後の“泣き演技”良かったよ」

 監督が合図を出し、カメラが止まる。次回に繋がる重要な場面でのアドリブは、監督の許しを得た。
 しかしそれを言われるまで、水仙は自分が泣いた事に気付かなかった。

「どうしてでしょう……わたくし」

 零れ落ちる涙を、スタッフから渡されたタオルで拭う。
 表面的には何時もと変わらない、完璧な大女優の演技。しかし水仙の心は人知れず戸惑っていた。

(あの方の姿が重なるなんて)

 思い出す、とても美しい人間。王子様と呼ぶには繊細過ぎて、まるで儚い幻想。

(凛音、桜雪……君)

 トクン。
 心臓が甘い音を立てた。それは遠い記憶の彼方に置いて来た、恋の旋律とよく似ている。
 けれど水仙はその感情を忘れるように首を振った。
 桜雪は見るからに若く、かなりの年下だろう。それに息子の“友人”だ。懸想するなど、はしたない以前に考えられない。

(きっと、未だ驚きが残っているだけでしょう)

 左胸に掌を重ね、そっと鼓動を落ち着かせる。
 人前で恥を曝した。その羞恥が長い尾を引いているだけ。このまま桜雪に会わなければ、薄れてゆく感情だ。




「そうなの。なのはね、大きくなったらモデルさんになるのよ」

 しかし運命の歯車は速度を緩めず、抗おうとする水仙の想いも巻き込んでゆく。

「え?」

 撮影を終わらせ、幼い娘を迎えに行った水仙は我が目を疑った。
 楽しそうに微笑む菜花。それは水仙の心が和む数少ない場面だ。しかし、今日はその光景に変化が起きていた。

「あー。ママぁ!」

 母親似の瞳をパッと輝かせ、菜花が小さな右手をブンブンと振る。
 その右隣に居るのは兄である山吹。そして正面には、何故か桜雪が居たのだ。
 想像を超えた展開。水仙の心と頭は置いて行かれる。

「すみません。勝手に娘さんとお会いして」

 本当に申し訳なさそうに、桜雪が頭を下げる。すると長い髪が肩口を滑り、サラサラと風に遊ばれた。

「いえ。私が菜花に凛音さんの話をして、連れて来たのも私なんです」
「なのはが『会いたい』ってお願いしたのよ。さゆきさんはわるくないわ」

 山吹と菜花が矢継ぎ早に桜雪を庇う。子供達はすっかり、彼に懐いていた。

「驚きはしましたが、怒ってはいません。その方は、山吹さんのお友達なのでしょう?」

 頭を冷静に整え直す。
 菜花の夢は『モデル』だ。水仙的には山吹と同じく、役者の道を進んで欲しいと思っているが、今はその問題を横に置く。
 そして桜雪は現役モデル。妹の夢を知っている山吹が、将来の役に立つように引き合わせたのだろう。純粋な兄の心で。

「ですが、一言。母に連絡を入れなさい。保育園まで迎えに行く所でしたよ」

 厳しい母親の顔も忘れず、水仙は山吹と向き合う。
 もしも引き合わせた相手が変質者だったら、兄妹揃ってパクリと食べられている頃だ。そんな事態は山吹も本意ではないだろう。

「はい。軽率でした」

 山吹の頭が反省に下がる。
 年の割に落ち着いて、聡明な山吹。彼はすべてを話さずとも、水仙の真意を汲み取ったのだ。

「つまりママは“しんぱい”してしまったの」

 その横では菜花がコートの袖を引っ張り、桜雪に耳打ちしていた。

「うん。そうだね。菜花ちゃんのお母さまは優しい女性(ひと)だ」

 小さな子供の身長に合わせ、屈む桜雪の姿が慈愛を帯びる。モデルよりも保育士の方が似合っていそうな人物だ。
 此処は保育園の近くに有る児童公園。チラチラと降り出した雪にも負けず、子供達が遊んでいる。

「さぁ、此処は寒いでしょう。家へ帰りますよ」

 水仙は山吹から菜花へ視線を移し、帰宅を促す。
 モコモコのファーコートは温かそうだけれど、冷気の侵入を完全には塞げない。
 小さく、けれど筋の通った菜花の綺麗な鼻先は赤く染まっている。寒いのだ。

「いや。なのは、もっとお話しするの……クシュッ」

 桜雪の腕に抱き付き、いやいやと首を振る菜花。しかしクシャミの音が我慢できずに飛び出した。

「風邪を引いてしまうよ。菜花ちゃん」

 優しい掌が菜花の頭を諭すように撫でる。
 それは妹の面倒を見ている山吹でも、母親である水仙でもない。今日会ったばかりの桜雪だった。

「大丈夫よ。だってなのは、“キューピット”になるの!」

 キラキラ。菜花の瞳が使命感に輝く。

「ん? 何に?」

 当然桜雪は意味が分からず、疑問符を浮かべた。
 しかし水仙と山吹の肩は同時にギクンと跳ねる。母息子揃って、桜雪の顔を真面に見られない。

「菜花……それは凛音さんの迷惑になってしまうから。な!」

 山吹が菜花の身体を抱え上げる。その頬は羞恥の感情を隠しきれず、微かに染まっていた。

「あら、にーさん。一歩を踏み出さないと、赤い糸にはならないわよ」
「赤い糸って。意味は分かっているのか?」

 真剣な表情の菜花が兄に意見する。乙女モードの彼女は何時もより饒舌で、流石の山吹もタジタジだ。

「ね。ママ!」
「何故、わたくしに話を振るのですか。菜花さん」

 プイっ。水仙は明後日の方向へ視線を逸らす。
 真白い雪の結晶がふわりと舞い降り、葉の落ちた街路樹を彩る。まるで天使の羽が、世界を一時でも美しく染めるように。

「そうだわ。お外がさむいなら、お家でお話しましょう」

 名案を思い付いたと、菜花が両手をポンと合わせる。張り切るキューピットは母親の戸惑いなど簡単に飛び越えてしまった。

「さゆきさん。お誘いしても、よろしいかしら?」

 菜花が桜雪に向かって、パーティーに参加する淑女のように右手を差し出す。
 元から人懐っこく誰からも愛される娘であったが、その気合の入れようは大切な『家族』の為。
 そして母親の性ゆえか、水仙は菜花の想いに気付く。つまり母親の橋渡し役を買って出たのだ。

「ごめんね。これから、大学へ戻らないといけないんだ」

 形の良い桜雪の眉がハの字に曲がる。困っているその顔は遠慮しているようだ。

「えっ大学生、なんですか?」

 山吹が新事実に驚く。
 その亜麻色の髪にも雪が舞い降り、桜雪が撫でるように払い落とした。

「うん。今年の春で19歳。見えないと、よく言われる」

 照れる山吹の頬。それにつられて、桜雪も照れくさそうに微笑む。

(何を年甲斐もなく、舞い上がっていたのでしょう)

 しかし水仙は淡い感情から一歩下がる。
 若いとは思っていたが、桜雪の実年齢は予想よりも下。二人の子供を育てる水仙とは、一回りも違う学生だ。

(彼は息子の友人。それで、いいのです)

 もう蓋をしよう。水仙は左胸を押さえ、落ち着かせるように息を吐き出す。
 ピンと張る冬の空気は冷たく、悩ましい吐息は白く染まった。

「どうか、しましたか?」

 不意に、桜雪の注目が水仙へ向く。

「え?」
「いえ、辛そうでしたので」

 心配そうな問い掛け。整えた筈の心臓が不意討ちにドキンと跳ねる。
 常に冷静で落ち着いた対応を心掛けている水仙。その信条に、桜雪はまるで天敵だ。
 動揺が、簡単に誘われてしまう。

「寒いですよね。ごめんなさい、長々と」
「ママ、さむいの? なのはがギューしてあげるわ」

 桜雪の言葉を聞いた菜花が、水仙へ両手を伸ばす。
 意図を汲み取った山吹が菜花を下ろし、直ぐに駆けて来た。そして水仙の脚にギュウと抱き付く。
 温かな子供体温が心地良い。それだけで充分だと思った。



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あきゅろす。
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