初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心6
深い珈琲色の中に白色が交ざる。その味を柔らかくするミルクだ。
「勝手にごめん。でも、苦そうだったから」
黒に近かった焦茶が円やかで優しい色に変化する。まるで小さな魔法にでもかかったようだ。
「砂糖は自分で加減した方がいいかな」
「あ、はい」
言われた通り、甘い砂糖をもう一匙入れる。
雪のような白色がサラサラと溶けて、苦い珈琲は丁度良い味になった。
「美味しい」
もう一度カップに口を付ける。無理に飲み込んだコーヒーが今度はスルリと喉の奥に消えた。
ほろ苦い珈琲と甘い砂糖、それに円やかなミルクが調和した味。大人である桜雪の前では恥ずかしいが、確かにそれは山吹の舌でも楽しめる。
「年齢を重ねれば味覚も広がる。僕が子供の頃はそれでも飲めなかったよ」
桜雪がミルクピッチャーを元の位置に戻す。
その姿が一瞬、大切な言葉を教える父親のそれと重なった。可笑しな目の錯覚だと、山吹は思う。
家を出て行った実の父親は、桜雪と微塵も似ていないのに。
「今日はありがとうございました」
冬の空は暗く染まり、住宅街には家庭の明かりが灯る。カフェを出たのは6時過ぎだが、外はすっかり夜の景色だ。
「僕の方こそ、楽しかったよ。山吹君」
門の前で別れを告げる。桜雪の家は別方向に有るらしいのだが、態々送ってくれたのだ。
『プップー』
雪白家は高級住宅街に建っている。敷地前の道路は私道だ。其処に一台のタクシーが侵入して来る。
鳴らされたクラクション、山吹と桜雪は路肩へと足を動かした。
「おや、山吹さん」
タクシーが止まり、静かにドアが開く。
先に顔を出したのは蝋梅(ロウバイ)だった。冬に咲く黄色い花。独特の甘い香りが鼻腔を擽る。
「今、帰りでしたか。丁度いいですね」
続いて、水仙が顔を出す。その腕に蝋梅が抱えられていた。生け花用の花なのだろう。
タクシーは客を送り出し、元来た道へ戻って行く。
「今夜は一緒に……ッ!」
不意に、水仙の身体がグラリと揺れる。溶けて凍った雪に草履が滑ったのだ。
「母さん!」
山吹が反射的に駆け出す。
水仙の両手は花束で埋まっている。このままでは固い道路に正面衝突だ。
女優である水仙の顔は例え一ミリでも、傷つける訳にはいかない。それは同じ役者の道を歩む山吹が誰よりも理解している事だ。
「大丈夫ですか?」
「え……ええ」
しかし山吹よりも先に、別の人間が水仙を救う。
スラリと長い腕が、か弱い女性の肩を支える。そう、山吹の母親を救ったのは桜雪だった。
「危ないところを、ありがとうございます」
多少の狼狽を残す水仙が礼を述べる。
蝋梅を包む包装紙はクシャリと皺が出来てしまったが、水仙の顔や身体には傷一つない。
「油断していました。迷惑をかけましたね」
水仙は意外にも逞しい腕の中から、サッと離れる。
対して桜雪は誰もが知る有名人を前に緊張もせず、普段と変わらない気遣いを見せた。
「いえ、怪我がなくて良かったです」
「ッ……! あ、貴方は」
完璧を演じる女優の失態。それが恥ずかしいのか、水仙の頬が朱色に染まる。
まるで初恋を知った初々しい少女のようだ。
「山吹さんの、お知合いですか?」
「はい。モデルをしている、凜音桜雪さんです」
クルリと振り向き、水仙は山吹と向き合う。
その動きに合わせて、蝋梅の花が揺れた。冷たい夜風が甘い香りを運び、空間を包み込む。
「そう、ですか……」
運命の歯車は速度を増し、水仙の心に変化を齎す。
けれど山吹は母親の感情が新たに生まれた事を知らない。それが山吹の未来へ直接繋がる愛しい感情だとも、気付かなかった。
◆◆◆
最後まで紳士的だった桜雪と別れを告げ、水仙と山吹は自宅へ戻った。
「やはり、ちゃんとしたお礼を返すべきでした」
ソワソワと落ち着きなく、水仙がリビングの中を行ったり来たりする。
何時もピシリと厳しい彼女の珍しい姿。その様子に普段と違う何かを察したのは菜花で、パタパタと駆け寄って行く。
「ママ、どうしたの?」
小さな掌が水仙の脚に抱き付く。そして菜花は疑問の原因を探るように母親の顔を覗き込んだ。
「いえ、何でもありません。わたくしは冷静――そう、普段通りです」
プイ、と。水仙の端整な顔が何かを誤魔化すように天井へ向く。それは明らかに普段の彼女と異なっていた。
「にーさんとおなじ色だわ」
「菜花さん! そんな事を言っていないで、もうお風呂へ入りなさい」
水仙が菜花の小さな身体を抱え上げる。
菜花の言葉は普段通りなのだが、水仙は一方的に焦っているようだった。
「ママはキレイな宝石を見つけたとおもうの」
フォオオン。
亜麻色の髪がドライヤーの風に揺れる。
ロココ調のソファにちょこんと座る菜花はまるで遠い国のお姫様のようだ。
その髪を乾かし終わり、山吹はクシを手した。そして妹の髪をサラリサラリと梳いてゆく。
「宝石……? 母さんが行っていたのは、花屋のはずだが」
「にーさんは“乙女心”にうといのね」
菜花の溜息がフゥと漏れる。
女性は精神年齢が高いというけれど、その仕草は正に年頃の乙女。山吹はひっそりと困り笑顔を浮かべた。
「ひいろさんも、くろうしていそうだわ」
「緋色は正真正銘の男だぞ、菜花……」
その意味には何となく気付き、山吹は菜花の鋭さに心の汗を流す。
ちなみに菜花も、兄の幼馴染である緋色と親しい関係なのだ。
「ほら、もう寝る時間だ。一緒に部屋へ行こう」
山吹は立ち上がり、クシを所定の場所へ戻す。
これ以上この話題を続けていたら、山吹的に不味い展開へ向かいそうだ。
「ごまかしかたがママとおなじだわ」
ポソリと呟き、菜花もソファから腰を上げる。その動きに合わせ、長いネグリジェの裾が花弁のようにフワリと揺れた。
「ん、何だ?」
素直に階段を上る菜花へ山吹は疑問を投げる。
母親譲りのアメジストは、形成されつつ有る将来の四角形を知らない。未だ純粋な子供の瞳だ。
「にーさんは、本当にママ似ね。……いいえ、違うわ。親子だもの、似てしまうのね」
妙に確信めいた言葉が、未来を見透かす予言者のような錯覚を引き起こす。
菜花も雪白の人間だ。例え幼くとも、その才能は心に響き幻惑を見せた。
「でもそれは――ううん、とてもステキなことだとおもうわ」
言葉の途中で、菜花が首を横に振る。小さな秘密を仕舞うように。
「菜花?」
「それじゃあ、おやすみなさい」
明るくフワフワ微笑み、菜花は自分の部屋へと消えて行く。置いてきぼり状態の山吹を残したままで。
「菜花さんは……ああ、もう休みましたか」
丁度その時、水仙が楚々と現れた。そしてリビングを見渡し、娘の居場所を確認する。
水仙と菜花は一緒に風呂に入っていたのだが、一足先に出た菜花の髪を山吹が乾かしていたのだ。
「まったくあの子は、今日もお兄様に甘えて」
時間は午後の8時。水仙は未だピシリとした着物に身を包んでいる。
その言葉も厳しい母親のもので、微かな揺らぎも完璧な仮面の下に隠す。普段の水仙そのままだ。
「山吹さんもお仕事で疲れているのに、ご苦労様です」
自慢の息子として、一人の人間として、水仙は山吹と向き合う。
山吹の長男意識が強いのは水仙が一人前の男として扱ってくれるからだ。
「いえ、菜花は可愛いですから。苦になりませんよ」
「ですが、菜花さんも甘えっ子のままでは困ります」
あと三ヶ月も経てば菜花も保育園を卒業して、小学生になる。水仙は母親の立場で色々と考えているのだ。
本来なら夫と話すべき問題だろうが、水仙はそれを山吹(息子)と共有する。
けれど一度として『父親が必要』だと口にしないのはプライドの高さ故か。それを証拠に、水仙は夫が出て行った時から一度もその名前を出していない。
そして子供である山吹に大人の事情は複雑に入り組んだ出口のない迷宮だった。
水仙が夫への愛情を残しているのか、それとも過去の産物に変えてしまったのか、分からないのだ。
しかしその男は確かに山吹の“父親”だ。もしも『完全に忘れました。もう、微塵も愛していません』と言われたら、淋しい。
息子である山吹でもそうなのだ、愛し合った妻である水仙は遥かに複雑な感情を隠しているのだろう。
「そんなに心配しなくても、人は自然と大人になるものですよ」
不意に、桜雪の姿が脳裏に浮かぶ。その言葉に込められた想いは山吹の心に沁み込み、とても大切な宝物に成っていた。
年を重ねれば人は自然と成長して、それに見合った精神を宿す。それは味覚だけでなく、すべてに繋がるものだ。
「え?」
「今日、言われたばかりの受け売りですが」
珍しくキョトンとする水仙。その反応に、山吹は照れくさく種明かしする。
「そうですか、あの方に……」
忘れかけていた熱を思い出すように、水仙の頬がほんのり色付く。
まるで愛しい王子様を夢見る、可愛らしい乙女。それは山吹の知らない女の表情だった。
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