初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心3
「今日はありがとう。また明日、学校でな」
今の山吹に色よい返事を贈る事は出来ない。残酷な答えだけれど、山吹はもう『凜音桜雪』という存在(初恋)を知ってしまったのだ。
「へ? あ、ああ……。そうだな」
頭を抱え一心不乱に振っていた緋色。冷静さを取り戻した山吹の声に彼の意識も現実へ戻る。
「雪も降り出した。滑らないように、気を付けて帰れよ」
全ての友情を籠めて、山吹は緋色を送り出す。
緩やかな北風が雪を運び、世界を真白に染める。生まれたばかりの玉雪は天に舞う羽のように美しく。けれど触れれば、とても冷たい。
「オレがそんなヘマするか。自意識過剰ばーか!」
燃える頬熱を誤魔化すように駆け出し、緋色は捨て台詞を叫ぶ。その足取りは素早いが、普段と比べて覚束ない。
それも軈て遠くなり、子供らしく小さな背中は夜に消える。
これで良いのだ。今は動揺に揺れても、緋色は直ぐに普段の彼へ戻る。
「――ごめんな、緋色」
親しく振っていた右手を引っ込め、山吹は天を仰ぐ。切ない吐息は白く染まり、冬の空気に溶けて消えた。
自宅の扉を開け、帰宅を知らせる。
「おかえりなさい」
直ぐに小さな足音がパタパタと聞こえて、菜花が顔を出した。
小さくて可愛らしい。山吹の大切な妹。彼女は一目散に駆け寄り、端整な兄の顔を心配そうに覗き込む。
「にーさん。だいじょうぶ?」
幼い菜花は舌足らずだ。しかし天性の鋭さが山吹の変化を敏感に感じ取る。
「ステキなのに、かなしい“色”よ」
抽象的な、けれどシンプルで分かり易い言葉。菜花の見ている世界の色は、山吹とは微妙に違うのだろう。
「稽古で疲れたのかな? もう風呂に入って、休むとするよ」
ふわりと抱き上げた菜花の体重は花のように軽く。山吹の心も軽くなる。けれどそれは一瞬の癒しだ。
「なのはね。にーさんに、こもりうたうたってあげるわ」
誤魔化しの笑顔も菜花には通じないようで、小さな紅葉が「よしよし」と頬を撫でる。
「ん、頼めるかな。菜花」
むず痒く優しい掌の感触。冷えた頬が、菜花から与えられるそれにホカリと温かくなる。
可愛い妹が一生懸命慰めてくれたのだ。これに喜びを感じない兄はいないと、山吹は思う。
「体調管理も仕事の一つですよ。山吹さん」
その時。清楚な着物の裾を一度も乱す事なく、一人の女性が現れる。厳しくも上品な美貌はキリリと引き締まり、優しい母親の顔を奥に隠す。
彼女の名前は雪白水仙(ゆきしろすいせん)。山吹と菜花をこの世界に産み出した母親だ。
「はい。一晩休めば回復します」
山吹の肩が無意識に緊張する。水仙は何事に対しても厳しく、我が子にも毅然とした姿勢を崩さない。
そして厳しい母親は、同時に尊敬する役者の先輩。プライベートな問題でへこたれる、恰好悪い姿は見せられない。
「ですが、今夜は冷えるそうです。なので毛布をもう一枚出して置きましょう。山吹さんが風邪を引いては困りますからね」
水仙の指が山吹の肩口に伸びる。練習着の受け渡しを示されて、スポーツバッグごと手渡す。その行動と気遣いの言葉は母親のものだ。
「菜花さん、貴女もお兄様に迷惑をかけてはいけませんよ」
山吹にべったりな菜花。水仙はピシリと厳しい口調で注意を促す。
彼女の気質は時代に取り残されたように古風で、その立ち姿は才色兼備な良家の子女にも見える。
そして水仙は女優としてのプライドが高く、同じ役者の道を歩む山吹に目を掛けていた。
「ママ〜。こわいお顔したらダメなのよ」
身がピシリと引き締まる水仙の眼力。けれど娘である菜花はふわふわと微笑みを返す。
どんな薄い毒気も抜かれてしまう花畑の出現に、氷の如き水仙の雰囲気も和らぐ。
「全く、貴女は誰に似たのでしょうね?」
「うふふ。先生にはママにだっていわれたわ」
艶めき輝く亜麻色の髪。妖しくも上品な紫水晶(アメジスト)の瞳。山吹は勿論、菜花の容姿も水仙の血を色濃く受け継いでいる。
まるで、父親の存在など知らないように。水仙だけの子供で有るかのように。
そう、雪白家に『父親』はいない。
その理由は複雑な事情を抱える未婚の母なのでも、悲しき未亡人なのでもなく――ただ単に水仙と夫の夫婦仲が悪く、別居中なのだ。
そしてだからこそ、山吹は長男としての意識が他人(ひと)よりも強い。
『母さんと菜花は、ぼくが――私が守る!』
振り返りもせず家を出ていった父親の背中に、山吹が誓った想いである。
「ほら菜花さん、何時まで甘えているのですか? 山吹さんが休めないでしょう」
スルリと、菜花の小さな身体が持ち上がる。水仙が抱え上げたのだ。
「お夕食はどうします。食欲がないのなら、スープでも“作り”ますが」
「あ、いえ! 母さんの手を煩わせる訳には……」
緊張とは別の理由で山吹の肩がビクンと跳ねる。
水仙は幼少の砌より女優としての道を真っ直ぐに歩んできた。
日々のすべてを演技への情熱に捧げた結果、初めて包丁を握ったのが新婚生活一日目。他にも水仙は家事全般が初体験で、それはもう惨憺たる結果だったそうな。
そして現在、洗濯物はクリーニング店に出し掃除はハウスキーパーに任せて、食事は料亭のデリバリーを利用している。つまり、今でも水仙は家事が不得意なのだ。
「にーさん。なのはが大きくなったら、お料理ならうわ」
幼い菜花は母親に抱かれながら決意を固める。ママゴトにも意欲的な彼女は腕を振るってくれるだろう。
「ああ、是非頼むよ。菜花」
しかしそれが現実になるのは一体何年後であろうか。母親の善意を無下には出来ないが、胃の方が心配である。
「心配せずとも、スープの缶詰が有ります。それを温めましょう」
着物の袖を楚々と翻し、水仙はキッチンへ向かう。
その頬は微かに赤らんでいた。流石の大女優も我が子達の反応に気恥ずかしくなったのだろう。
「ママ〜。レンジに“かんづめ”を入れちゃダメなのよ」
「おや? そうでしたか」
暫くして、ほのぼのと危険な会話が聞こえて来る。それから連想される光景に、山吹も急ぎキッチンへ向かう。
「鍋に移し替えて、コンロで温めれば出来ますから」
幸い、水仙は缶詰を片手に思案中だった。山吹はレンジ前で悩む母親から缶詰を受け取り、その後の調理も自分で済ませた。
「すぅすぅ」
菜花の寝息が安らかなハーモニーを奏でる。
約束通りの子守歌を歌い終えて、彼女は電池が切れたように眠ってしまったのだ。
「さて、どうしようか」
温かな毛布を菜花に掛けて、山吹は悩む。
このまま菜花を自分のベッドで寝かせておくか、それとも彼女のベッドまで運んでゆくか。
寒い冬の夜。心情的にも体温的にも前者を選びたい。
「わたくしが連れて行きましょう」
自室の扉が開かれる。水仙が新しい毛布を届けに来たのだ。
「ほら菜花さん、自分のお部屋に戻りますよ」
「ん〜?」
水仙はふかりと温かい毛布を山吹のベッドへ置くと、小さな娘の肩を揺する。菜花は直ぐに目を覚ましたが、眠そうだ。
「や〜ん、さむ〜い。なのは、にーさんとねるぅ」
イヤイヤとシーツを掴み、菜花がぐずる。ベッドの外は冷やりと寒く、彼女もこのまま眠っていたいのだ。
「ははは。そうか、一緒に寝るか。本当に菜花は可愛いな」
思わず、山吹の頬がふにゃりと緩む。
べったり懐く妹の姿はミルクキャンディーのように甘く、兄心が刺激される。そうなればもう、選ぶべき選択肢は一つだ。
「貴方も妹に甘すぎですよ。山吹さん」
水仙が呆れたように額を押さえる。しかし怒られはしない。
「今夜は許しますが、寝坊だけはさせないように」
「すぅすぅ」
新しい寝息を立てる菜花の頭を撫で、水仙は母親の顔を覗かせる。
「はい。私が責任を持って菜花を起こします」
兄としての責任と愛しさ。その意味を噛み締め、山吹は頷く。
「貴方も、充分に身体を休ませなさい」
部屋の照明を水仙が消す。昼間のような明るさが、ボタン一つで夜の闇に染まった。
窓の外では雪が降り続き、世界の色を真白に染め続けている。
まるで山吹の、そして水仙の世界の色が移り変わってゆくように。真新しい雪の結晶は深々と降り続ける。
「それでは、お休みなさい。山吹さんも良い夢を」
最後に夜の挨拶を残し、水仙は息子の部屋を出て行く。その声は厳しくも優しい母親のものだった。
「お休みなさい。母さん、それに菜花」
新しい毛布を掛け布団に被せて、山吹もベッドへ潜る。そして小さな菜花がベッドから落ちないように、自分へと引き寄せた。
(緋色は……まだ、起きているだろうな)
閉じた瞼の裏に、不貞腐れた緋色の顔が浮かぶ。
「おやすみ、緋色」
微かにズキンと痛んだ胸を押さえ、山吹は囁く。緋色本人には届かない。けれど届て欲しい、心の声を。
そして山吹も夢の中へ意識を手放す。
有り触れた、普段と変わらない日常。その中で動き出した運命の針に気付かないまま――。
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