初恋は桜の中で
秘めやかに密やかに――恋する心2
「怪しい人間に自分から近付くな! 自覚あんのか!」
山吹に声を掛けた人物を指さし、緋色が叫ぶ。
初対面の人間に対して失礼な態度だとは思うが、その相手は確かに“怪しい恰好”をしていたのだ。
膝下まであるトレンチコート。目深に被った帽子。そして何より怪しいのが、夜に掛けるサングラス。視界はきちんと開けているのかと心配になる。
「あ、これは……外に出る時は顔を隠すように言われていて」
件の人物が慌ててサングラスと帽子を取り外す。緋色の警戒理由に気付いたのだろう。
「ごめんね。怪しい者では、ありませんよ」
暑い雲に覆われ、その存在を隠してい月光が降り注ぐ。月のスポットライトに照らされるその人物は――山吹が今まで目にしたどんな人間よりも美しかった。
最高級のルビーを閉じ込めた瞳。長く艶やな髪は夜にとける紫黒。中性的な美貌は繊細で、人目を奪う。
「僕の名前は凛音桜雪。これでもモデルをしています」
鈴の音が鳴った。山吹の心に鳴り響くその音色は反響を繰り返し、深く刻まれる。
初めて感じた、心の奥底が惹き込まれる感覚。呼吸するのも忘れて、山吹はその人物――凛音桜雪(りんねさゆき)に見惚れた。
「ぁッ……わた……いえ、ぼくの名前は」
何故だか炎に焼かれたように頬が熱い。焦る鼓動を制御する術も、山吹は桜雪の前で失ってしまった。
「うん。大丈夫、それは分かってるよ」
しかも桜雪は初対面にも関わらず、優しく山吹を気遣う。それにまた甘酸っぱい感覚を覚えた。
存在さえ知らなかった感情の扉が甘く開かれる。中に眠る山吹を目覚めさせたのは、桜雪だ。
けれどそれは、山吹だけの切ない変化。成長著しい山吹よりも遥かに高い身長。桜雪は“大人”だったのである。
「なにテンパってんだ。こんなひょろ長い“姉ちゃん”に」
友人の変化を横で見ながら、緋色が不機嫌をケッと吐き出す。
「あ、いや……。僕の性別は、一応“男”です」
「ええ!?」
「はぁああ!? そのツラでか? 詐欺だろ、詐欺!」
驚愕の真実が素っ頓狂な大声となって空気を振動させる。
自声の大きい緋色は勿論、山吹も日々のボイストレーニングを怠っていない。その音量は通行人の注目を瞬時に集める程だ。
「ねぇ、あれって雪白山吹くんよね」
「本当だ。撮影かな、綺麗な人と一緒にいる」
未だ浅い時間とはいえ夜は夜。待ち行く人々は遥かに年上の大人達。山吹を見てキャーキャー騒ぐよりも、微笑ましい眼差しを向けている。
しかしそこは『人間磁石』と呼ばれる山吹。その人数はどんどん増えてゆく。まるで蟻の集団に群がられる角砂糖の状況だ。
「ごめんね」
「え?」
先に口を開いたのは、桜雪だった。
遠巻きながらも膨れ上がる人波を見渡し、申し訳なさそうに身を屈める。子供の山吹と目線を合わせる為だ。
「騒ぎになってしまった。僕が引き止めたせいだ」
そう誤りの言葉を紡ぐ唇は柔らかそうで、武骨な男性だとは信じがたい。
確かに身長は高いが、それは平均的なデータと比べてだ。桜雪が男性モデルだというならば、むしろ低いカテゴリーに入るだろう。
山吹はモデル出身の俳優とも仕事経験がある。その者達は180pを悠々と超える高身長ばかりで、スタイリッシュな雰囲気を纏っていたのだ。
だから余計、桜雪に華奢という印象を感じる。まるで空に舞う儚い零れ桜のようだ。
「いえ、慣れていますから。気にしないで下さい」
幻想に魅せられる意識を現実に引き戻し、山吹は気遣いを返す。
例え桜雪が呼び止めずとも、誰かに声を掛けられれば結果は同じ。山吹から見れば慣れた光景だ。
それに今回はテレビの撮影だと思われているようで、直接群がられる事もない。
「お前こそ真っ黒なグラサンかけて、そのお綺麗なツラ隠せや。山吹」
「フードでも充分隠せると思ったのだが、な」
「思いっきり見つかってんじゃねーか」
緋色の怒りも噴火せず、山吹をからかう余裕がある。桜雪への警戒心も、完全とまではいかないが解けたようだ。
「ふふ。お友達と仲が良いね」
桜雪の微笑みが慈愛に花咲く。
美の女神も白旗を上げるその美しさ。感嘆の溜め息がそこかしこから漏れ聞こえる。
「はい。彼とは幼馴染で親友なんです。ほら緋色、挨拶は?」
アイコンタクトを送り、山吹は友人へ自己紹介を促す。
「あー? オレは“げーのうかい”とか関係ねーし、興味もねー」
しかし緋色はプイッと視線を逸らした。返事もお座なりで、再び臍を曲げる。
「すみません……あの、凛音さん。普段は気さくな友人なのですが、虫の居所が悪いみたいで」
年上の桜雪へ失礼な態度を詫びながらも、山吹の心臓は音を奏でる。他人の名前を口にするという有り触れた行為。それに甘いトキメキを感じたのだ。
「いいや。僕の方こそ接点もないのに、馴れ馴れしかった」
もう一度「ごめんね」と言って、桜雪は緋色の前に移動する。そして山吹の時と同じように目線の高さを合わせた。
その姿勢に桜雪の人の好さが滲み出ている。山吹の中で、桜雪に対しての感情がどんどんプラスされてゆく。
しかし桜雪への好感度が上がれば上がる程、緋色は面白くなさそうだ。
「嫉妬姿も可愛いけれど、山吹君が困っているよ」
「なッ! に、言っ」
緋色の喉が交通渋滞を引き起こし、声が詰まる。桜雪の囁きが正解したのだ。
「ああ、なるほど」
紺色の手袋に包まれた両掌をポンと合わせ、山吹は得心がいく。
「アッサリ納得すんな!」
緋色の叫びがそれを追いかける。その頬は朱に染まり、羞恥心を隠しきれていない。
「確かに“友人が盗られて”は気分の良いものでもないな」
山吹は視線を落とし、改めて緋色を見詰める。彼の顔は丁度、胸元の高さに位置している。
それを補足すれば緋色の身長が低いのではなく、山吹が高すぎるのだ。
「――自分で、言うんだな……」
声変わり前の、それでも勝気な緋色の声音が低く沈む。
「ん? 何か言ったか」
しかし山吹の鼓膜はそれを拾えなかった。
山吹がいるという噂は光の速度で広がり、様々な話し声が生まれて消える。小さな呟きはその波に飲み込まれてしまったのだ。
けれど緋色の唇は確かに動き、山吹に言葉を投げた。それを確かめる為に身を屈め、耳を緋色の口元に近付ける。
「もう帰るぞ! って、言ったんだ」
「うわっ!」
弾丸のような大声が飛び込んできた。驚きに身を引いた山吹の鼓膜にもグワングワン反響する。
「大丈夫?」
軽く耳を押さえ、沈静を待つ山吹。その身を桜雪が案じる。
「はい。少し驚いた、だけですから」
「そう。なら、一安心だ」
純粋な喜びを伝える音色が山吹の鼓膜を優しく癒す。たった数分の邂逅で、桜雪はとても大きな存在になっていた。
しかし、この出会いは偶然にも似た神様の悪戯。山吹と桜雪、そして緋色の運命が――今、哀しくも愛しい結末へと秒針を刻み始めた。
◆◆◆
「じゃあな。今度から怪しい大人とホイホイ仲良くなるなよ」
「ああ、肝に銘じるよ」
門の前で別れを告げる。親切にも緋色は山吹の自宅まで送ってくれたのだ。
「けれど凜音さんは、結果的に良い人だったな」
「お前はアレか、面食いか」
咲き零れる桜雪の微笑が脳裏に浮かび、山吹の頬はほっこりする。その様子に緋色は呆れ気味だ。
「そんなにお綺麗な顔が好きなら、鏡でも見てろや」
「……私はナルシストではないのだが」
それ以前に、桜雪の容姿だけを気に入った訳ではない。
しかし緋色は信じていないようだ。鋭い三白眼が山吹の顔を何か言いたげに見据える。
「あんな細っこい男の何処が良いんだ。お前より綺麗なものなんざ、この世界にねぇだろ!?」
悔しそうに、淋しそうに、緋色の言葉が冷たい空気に沁み込む。
暑い雲に覆われた天空からは優しい月光が消え去り、代わりに真白な結晶が生まれる。それは一点の曇りもない純粋な雪の先触れ。
ふわりフワリと舞い降りて、緋色と山吹の世界に変化を齎す。
「それは、え……? つまり」
突然の告白に、山吹の頭が混乱する。
まさかこの期に及んで『友人としての嫉妬心』と解釈するほど、山吹は鈍感でもなかった。そして緋色の心が発する切ない悲鳴に気付かないほど、浅い付き合いもしていない。
「私の事が、……好きだという解釈でいいのか?」
「ハァアアア!? なんだそれ! 言ってねーだろ、一言も!」
緋色の頭がプシュゥウウと沸騰する。
山吹から視線も外して、出鱈目に両腕をブンブン振り回す。そのグチャグチャな混乱具合は、逆に正解を教えているようなものだ。
もしも外れていた場合、『はぁ? なんだそれ。やめろよ、気持ち悪りぃ。自意識過剰にも程があるだろ』くらいの暴言を緋色なら容赦なく口にする。
「そうだな、私の自意識過剰だ。忘れてくれ」
慌てふためく混乱は山吹を冷静にさせた。
もしかしたら緋色は、未だ無自覚なのかもしれない。ならば無理に自覚させない方がいいのだ。
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